戦没画学生の遺作を集めた美術館「無言館」設立に懸けた思い【戦後75年の夏:あの時代に生きた人々を思う③】

戦没画学生の絵を一か所に集めたい――。その一念で遺族を訪ね歩いて作品を集め、1997年長野の地に「戦没画学生慰霊美術館 無言館」を設立した窪島誠一郎氏。23年を経ていまなお館主として黙々と戦没画学生の作品の収集・保存・展示・普及につとめる氏は、ちょうど「無言館」設立直前にあたる1996年、『致知』のインタビューにご登場くださいました。「戦後75年の夏」シリーズ第2回として、「無言館」設立の原点にある氏の思いをここに再掲いたします。
※お話の内容は1996年当時のものです

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1冊の画集が原動力となった

――窪島さんは戦没した画学生の遺作を集めているそうですが、なぜ集めようと思われたのですか。

〈窪島〉
「どうして戦後画学生の遺作を集める気になったのか」――これは自分自身にずっと自問していることでもあるんです。僕は今年55歳ですから、戦争をろくに知らない世代の人間で、戦後の拝金主義にどっぷり浸かって、金儲けに懸命になって生きてきた。

そしていま、僕はただの美術館屋、つまり絵を扱う商売人なんです。そんな僕が戦争や平和を語る資格なんてない。だけど、このままこの戦没画学生たちの絵が、遺族とともに消えていくのを黙って見ていることもできない。

――それで、遺族を訪ねて全国を巡るようになった。

〈窪島〉
そうですね。これまでに35遺族ほどお尋ねして、300点以上の絵をお預かりしたでしょうか。今年中には、戦没画学生の作品を展示した「無言館」という美術館を信州に建てる予定でいます。

――実際には昨年の春から絵を集めていらっしゃるそうですね。

〈窪島〉
1冊の画集との出合いが原動力となりました。
昭和52年8月に出版された『祈りの画集』という本がそれです。戦没画学生47人の作品と、遺族を訪ねたときの取材記で構成された画集でした。

僕はもともと比較的早く病死したり、戦死したりした画家の、名も知られていない作品に心ひかれ、収集してきました。当時建設途上だった「信濃デッサン館」も、関根正二、靉光(あいみつ)といった夭折画家の作品ばかりを集めていた美術館なんです。

そんなとき『祈りの画集』を見たものですから、「こういう画学生もいるんだなぁ」と大変感銘を受けたのです。それだけではありません。画学生に対する関心と同じくらいに、この画集の編者の一人に強く興味をひかれました。

――どういう人ですか。

〈窪島〉
洋画家の野見山暁治先生です。野見山先生は戦時中、東京美術学校(現東京芸大)の学生で、多くの同級生を戦争で亡くされました。戦後30年経ち、芸大の教授となり、著名な画家となられても野見山先生は戦没した同級生たちを忘れなかった。

というより、ずっと気がかりにされていて、『祈りの画集』の制作を機に戦死した同級生や先輩後輩の遺族を訪ねて回られたのです。その取材記のひたむきな文章に心打たれたということも、戦没画学生の絵を集めるきっかけのひとつになりました。

戦没画学生の絵を一か所に集めたい

――『祈りの画集』が出版されてからもう20年近くが経っています。20年の時を経て、ようやく画学生の絵を集めるという形で、夢の第一歩を踏み出された。実際、戦没画学生の遺族に会われてどうでしたか。

〈窪島〉
いろんな方がいますよ。「絵を預からせてください」とお願いしても、必ずしも逡巡する人ばかりではない。お宅に伺うと、宅急便の箱に全部用意されていて、「忙しいから、それ持っていってください」といわれたこともありました。

そりゃあそうでしょうね。野見山先生が『祈りの画集』を作るために訪ねられたときの両親や兄弟は、9割近く亡くなられていました。結局、お訪ねしたのは遠い親族の方がほとんどです。

――その絵を描いた戦没者を直接知る人はほとんどいなくなってしまったわけですか。

〈窪島〉
そうです。でも、そういうご遺族もあれば、戦没者の分身のように、それは大切にされている方もいました。

九州在住で、78歳になられる佐久間静子さんはそんなひとりでした。佐久間さんのご主人・修さんは、東京美術学校を卒業して、熊本の中学で図画教師をしていました。それが昭和19年10月、生徒の勤労動員の引率で長崎県大村市に行き、そこで空襲に遭い亡くなったそうです。

――佐久間修さんの絵はどうなっていましたか。

〈窪島〉
額に入れられ、妻の静子さんの寝室に2枚並べて飾ってありました。その2枚の絵はどちらも、若いころの静子さんがモデルになっていて、戦後彼女はこの絵とともに生きてきたのです。再婚もせず、2人の子どもを育て、たった1枚の夫の絵を心の支えとしてきたのでしょう。その遺作を「預からせてほしい」とお願いしたって、そう簡単に手放せるものではない。

――断られたのですか。

〈窪島〉
野見山先生と一緒に初めて伺ったときには、「私が死んだら、一緒に焼いて、灰にしてもらうつもりです。有名でも何でもないのだから、そっとしておいてください」といわれました。その後は自分ひとりで3回訪問し、「責任を持って、永久に保存します」と申し上げたのです。

――4回訪ねて、ようやく預かることができたわけですか。

〈窪島〉
今年の5月、佐久間修さんの2枚の絵は、静子さんの部屋から外され、僕の手に渡されました。壁は日に焼けて黄色く変色しているのに、絵の掛かっていたところだけ、白く浮き上がるように見えた。その白さが目に焼き付いています。

――責任の重い仕事ですね。

〈窪島〉
こうして預かった絵が増えるたびに、重い荷物だなと肩に食い込むような思いを感じます。

「無言館」をつくることはゴールではなくスタートです。だから当然、オープンしてからも絵を集めることはつづけます。そして遺族に代わって大切に保存していくわけですから、僕の責任は本当に重いと思ってます。

戦没画学生が教えてくれること

〈窪島〉
戦没画学生は画家ではなく、画学生なわけだから、技術的にはまだまだ未熟で、プロの絵とは比べられない。まったく質が違うものなのです。でも素人だから、戦没画学生の絵だからこそ気づかされたことがあります。

僕は美術館屋です。「この絵はあの絵と比べてどうだ」とか、「評論家がどう評価しているか」とか、「賞をとった絵かどうか」といった視点で絵を見て、商売をしてきたわけです。

しかし、戦没画学生の絵を見ていると、そんな俗っぽい世界では得られない感動を与えてくれます。

――どういうことですか。

〈窪島〉
例えば、あなたが文章を書いているとき、「文章が書ける喜び」を感じますか。ふつうはそんなふうに感じたりはしないですよね。当たり前のことだと思って、気にもとめないんじゃないですか。

――そうですね。意識していません。

〈窪島〉
戦没画学生の絵を見ているとそんな当たり前のことが、かけがえのない営みだと感じられるのです。未熟ではあるけれども、彼らの作品には絵を描く喜びが溢れています。「少しでも長く、絵を描きたい」という切ない願いが伝わってくる。

実際、フィリピンのルソン島で戦死した日高安典さんは、出征のとき家族にこう言い残したそうです。
「あと5分でも描いていたい」
戦没画学生にとっては、絵を描くことが生きることだったのです。

――絵を描くことが生きること。

〈窪島〉
そう考えると、絵を描くことの尊厳さを感じずにはいられません。

結局、僕が「無言館」を建てるのは戦争反対、プロパガンダではないのです。神様から絵を描く才能を与えられた人たちがいた。それが戦争という強いられた宿命によって断ち切られてしまった。

その象徴である遺作を並べることによって、僕たちが日ごろ気にもとめていない、絵を描くこと、文章を書くこと、こうして話をすることが、もっともっと感謝して、大切に思うべきものだと気づいてほしいのです。もっとも、一番気がつかなければならないのは、この僕だと思っているんですけど。

僕もあと生きて15年ぐらいですかね。とにかくその間は、残された時間のすべてを使って黙々と「無言館」を維持し、守っていきたいのです。

(本記事は月刊『致知』1996年11月号「夢・祈り・実行」から一部抜粋・編集したものです)

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◇窪島誠一郎(くぼしま・せいいちろう)
昭和16年東京生まれ。高校中退後、38年に小酒場「塔」の店主となり、店舗を増やす。47年に酒場経営をやめ、銀座に画廊を開く。54年長野県上田市に「信濃デッサン館」(現・KAITA EPITAPH 残照館)を開館、館主となる。平成9年、同地に「無言館」を設立し、現在まで館主を務める。著書に『わが愛する夭折画家たち』『絵画放浪』などがある。

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