隠れたハイテク国家イスラエルを支えるユダヤ人の思考法

 

「シリコンバレーの1か月は深セン(中国)の1週間」という言葉があるように、世界のハイテク産業は欧米からアジアへと大きく変化し始めています。そんな中、独自の存在感を示しているのが中東のイスラエルです。イスラエルはこれといった資源のない四国ほどの面積の国土にわずか880万人(2017年)の国民が住む小さな国ですが、実は世界の名だたるハイテク企業が軒を連ねて大規模な研究拠点を持っているイノベーション国家でもあります。

なぜ世界はイスラエルに注目するのでしょうか? その謎について、ユダヤ研究30年の前島氏に「ユダヤ人特有の思考法」という観点から迫っていただきました。

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「この地上に義しい者は一人もいない」「誰でもどこか間違っている」

この地上に義(ただ)しい者は一人もいない(伝道の書720)——これがユダヤ教の根本的な思想です。

イスラエルなどのユダヤ社会では、「誰でも(自分も)どこか間違っている」ということを前提に、答えを限定せず、どんどん議論を重ねていきます。教科書やマニュアルに書かれたことを絶対的なものとし、ただ一つの「正しい答え」を求めるわれわれ日本人とは、大きな違いでしょう。

実際に、ユダヤ経典の集大成とされる『タルムード』でさえ、本文と併記して、後世の学者の見解や詳細な注釈が加えられており、いまでも原典に新たにページを糊付けしていく形で、内容が付加されていっています。

そのため、目上の人や教師の言うことでも鵜呑みにはせず、徹底的に自分の主張を述べるので、とにかく議論は激しいものになります。ただし、意見を述べる権利があるのは、人と違う考えを持っている時だけ。つまり「違う意見が盆の上にのればのるほど、真理に近付いていく」という考え方なのです。

たとえば日本では、論文を書く際、「カントによれば……」「ヘーゲルによれば……」といった表現をよく使いますが、彼らはそうした記述にさほど評価を与えません。「それは誰かが言ったことで、お前の意見ではないだろう」と言われておしまいです。

余談になりますが、学生時代に中世キリスト教の哲学・神学を専攻した私は、その線に沿って大学の講義も務めてきました。ところがある年の春、初めてイスラエルを訪れた時のことです。エルサレムの城門の前に立って、一歩も動くことのできない自分に愕然としたのです。

この城壁の中の様子、人びとの話すヘブライ語、何一つとして分からない。一体自分はこれまで何を学んできたのか。聖書に語られる出来事を、ただ観念的に捉えていただけで、現場についての理解が欠如していた。そのことに気づいたからでした。なぜもっと早くこの場所に来なかったのか——侮恨の念を抱いたまま、その後数年を過ごしたのです。

しかし、「もう1度やり直せばいいんだ」と決心し、書棚にあったラテン語の本を引き払うと、一からヘブライ語聖書やユダヤ思想について学んでいくことにしました。以来、30年、牛の歩みのような独学を重ねたのです。文字通り「40の手習い」でした。気がついた時には、すっかりユダヤ漬けになっていました。

ユダヤ人は相手が目上の人、上司や先生などとは無関係に問う

彼らの民族性に魅せられているもう一つの点に「問いをかける姿勢」があります。

一度、ヘブライ大学で、学生グループから「日本人の宗教性」について話してくれと頼まれました。そこで「日本人は生まれたら神社へお参りし、結婚は教会で行い、葬式では木魚を叩く」と話し始めたところ、すぐさま一人の学生が、「それはジョークですか?」と質問してきました。

私が「実際にそうなんだ」と答えると、「そんなことは考えられない」「日本人に信仰心はあるのか?」「イヤ、この人の言う通りだ。オレは日本で見てきた」と、たちまちハチの巣をつついたような騒ぎになりました。結局、彼ら同士の議論が沸騰して、気がつけば予定の時間になっていたという経験があります。

そもそも、ユダヤ人の日常の挨拶が「マニシュマ」(あなたは何を聞かせてくれますか?)なのです。彼らは相手が目上の人、上司や先生などとは無関係に、「問う」のです。相手が自分の子ども、部下、生徒、年下であろうが、関係ありません。とにかくまず問う。その姿勢は、彼らの口伝律法の書にある「賢者とはすべての人から学ぶ者である」という言葉に、如実に示されています。

一方、日本では、「問う」という習慣があまりありません。この国にも、「聞くは一時の恥……」というよい諺があるのですが、なかなか行動には結びつかない。特に、目上の者が目下の者に対し、虚心坦懐に尋ねるといったパターンは少ないのです。

しかし、親にせよ教師にせよ、その問いかけを、子どもや生徒たちに向けて行う習慣を持つべきだと私は思います。大人のそういう姿勢を通じて、子どもの中にも「問う」という習慣が自然と身についていくのではないでしょうか。

いまの日本の教育現場では、質問をすれば怒り出す先生もいると聞きますが、これはとんでもないことです。学問や真理のためにはすべてが平等であり、それが学生であろうが、教授であろうが、何の差異もないはずです。ユダヤの口伝律法書にも書かれている、「恥を恐れるものは学ぶことができない」という言葉を、われわれは噛み締めるべきではないでしょうか。

あらゆるものを疑い、すべてに問いをかける

あらゆるものを疑い、すべてに問いをかけるという姿勢——これは、ユダヤ人の中からノーベル賞受賞者が多数出ていることや、金融、産業、政治、芸術など、多分野にわたり成功を収めていることとも、決して無関係ではないでしょう。

「義しい者が一人もいない」。その立脚点に立てば、出される問いが一つであっても、答えのほうは無数にあることが分かると思います。

私たち日本人は、子どもの頃からの教育によって答えは一つしかないと考えてしまいがちです。そして権威や権力に対し、あまりにも従属的に行動する習慣がついてしまっています。

日本はいま、大きな転換期を迎えていますが、これまでの常識に疑問を持ち、これからいかに歩んでゆくべきか、問いを発し続けることによって、新たな道が開いてくると私は信じています。

◇前島誠まえじま・まこと)——ユダヤ教研究者

(本記事は月刊誌『致知』2004年12月号「徳をつくる」から一部抜粋・編集したものです。あなたの人生、経営・仕事の糧になるヒントが見つかる月刊『致知』の詳細・購読はこちら

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