2024年11月22日
稲盛和夫氏――たぐいまれな経営手腕と哲学を通じ、産業界のみならず広く市井の人にまで感化を与えた日本を代表する経営者です。京セラ時代には稲盛氏の秘書を務め、JALが経営危機に陥った際にはともに第一線で再建に携わるなど約30年間にわたり稲盛氏の側近として薫陶を受けたのが本書の著者、大田嘉仁氏です。著者は、大田氏が常日頃から語っていた言葉や教えを逐一ノートに書き留めていたといいます。その数、実に60冊。稲盛氏に関する書籍は多く出版されていますが、著者のみが知り得る稲盛氏の実像がありありと浮かび上がってくるのが本書の大きな魅力です。本書の「はじめに」より、一部抜粋してご紹介いたします。 ◎各界一流プロフェッショナルの体験談を多数掲載、定期購読者数No.1(約11万8,000人)の総合月刊誌『致知』。人間力を高め、学び続ける習慣をお届けします。
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稲盛氏の側近として過ごした30年
私は、1954年、鹿児島市薬師町で生まれました。その22年前、同じ薬師町で「経営の神様」と呼ばれる稲盛和夫さんは生まれています。私の社会人人生の中で生家が一番近いのは稲盛さんであり、一番長く仕事をしたのも稲盛さんです。 その稲盛さんとの最初の会話を私はよく覚えています。
1978年、新卒で京セラ(当時の社名は京都セラミック)に入社し、半年ほどたった頃、当時の稲盛社長を囲むコンパが開催されました。稲盛さんは「思うところをなんでも言ってくれ」と話すのですが緊張のせいか、誰も口を開きません。
そこで私が「京セラは高収益なのに、福利厚生が全然できてない。なぜですか?」と聞きました。すると稲盛さんは「お前みたいな新入社員に何が分かる。俺は、皆が京セラで働いて良かったと思ってもらえるよう必死で努力してるんだ」と私を睨みつけました。それでも私が「私たち新入社員は4人部屋の寮に入れられ、普通の生活もできてません」言うと「だから、良くしてあげようと頑張っていると話しているじゃないか」と答え、そこで、最初の会話は終わりました。稲盛さんは、生意気な新入社員が入ってきたと思ったのかもしれません。
その生意気な性格は変わることはありませんでした。私は、社費で米国ジョージワシントン大学経営大学院に留学させていただき、1990年、幸運にも首席で卒業することができました。そのこともあったのでしょう。稲盛さんが、翌1991年春、当時政治的にも大きな影響力を持つと言われた政府の第三次行政改革審議会部会長に抜擢された際、私は突然特命秘書に指名されました。
その数年後、稲盛さんから「お前は、先輩や役員にでも何でも言っているらしいな。生意気だと文句を言っているやつがいるぞ。もっと気を遣いなさい」と注意され、ドキッとしたことがありました。ただ、そのあと「俺には、これまで同様、何でもドンドン言ってくれよ」と付け加えられ、少し安心したことを覚えています。
その後、先輩や役員の方には、できるだけ気を遣うようにはしましたが、稲盛さんには、ある意味「生意気なまま」分からないことや納得できないこと、また、自分が思いついたアイデアなど、率直に伝えるようにしていました。あまりに的を外れたときには叱責を受けることもありましたが、稲盛さんは、基本的には嫌な顔をすることもなく、私の拙い質問などにも丁寧に回答されました。私は、そのような稲盛さんとの会話の中から多くのことを学ぶことができたように思います。
特に几帳面な性格ではないのですが、私は中学生の頃から日記をつける習慣がありましたので、稲盛さんとの会話や教え、気づきなどをできるだけノートにメモ書きするようにしていました。そのノートは、京セラを退任するときには60冊ほどになっていました。そのことを日頃から親しくさせていただいている致知出版社・藤尾秀昭社長に伝えると「貴重な記録なので、そこから印象に残る稲盛さんの言葉を抜き出して、書籍としてまとめてみたらどうか? きっと、世の中に役に立つはずだ」と勧められました。
「いつまでも俺の影に隠れずに、出しゃばれ」
37歳で特命秘書となった際、稲盛さんから、要人の方々との打ち合わせや会食には同席するように言われていたのですが、稲盛さんより22歳も若い人間が一緒にいることを訝しげに見る人もいました。また、私自身も戸惑うこともありました。
そんな私に対し、稲盛さんは最初「お前はメモ帳のようなものだ。便利だから同席させているんだ」と話していたのですが、途中から「この場で勉強し、大成してほしいから、お前を同席させているんだ」と言うようになりました。私が京セラの役員になった頃は「いつまでも俺の陰に隠れずに、出しゃばれ。これまで学んだこと、自分で成し遂げたことに自信を持って、皆に伝えなさい」と発破をかけられるようにもなりました。
藤尾社長から先のような提案をいただいたときに、私は、そのことを思い出し、稲盛さんと一番長い時間を共有し、謦咳に接することができた私には、稲盛さんから学んだことを発信する役割があると改めて思い、「分かりました」と返事をしたのです。
ただ、その作業は簡単ではありませんでした。自分の字とはいえ、走り書きの約60冊のノートを丁寧に読み返し、気になった言葉をピックアップし、整理、分類するには、途方もない地道な作業が必要となるからです。しかし、その地道な作業を続けていると、あるときから、言葉のほうから「私をピックアップしてほしい」と呼びかけられるような感覚に陥るようなこともありました。稲盛さんの善き思いに満ちた言葉が私のノートから次々と現れてくるのです。
本書は、その多くの言葉の中から、さらに選び抜いた言葉で構成されています。原稿を書き終わり、読み直してみると、厳しい表現もありますが、稲盛さんのどの言葉にも、すべての人の幸せを願い、すべてに善かれしという大きな愛が満ちていることに気が付きました。人間を語るときも、経営を語るときも、その善き思いが間違いなく根底にあるのです。
本書では基本的には、稲盛さんの言葉をそのまま引用していますので、読み方によっては誤解を与えるかもしれません。しかし、私が、勝手に当たり障りのない言葉に修正するより、生の言葉のままのほうが、稲盛さんの純粋な思い、迫力、そして愛を感じられると思い、あえてそうしています。
稲盛さんが、いつまでも生意気な若造であった私を長く近くにおいてくれたことに、今改めて心から感謝しています。稲盛さんからは、この世に偶然はなくすべてに意味があり必然だと教えてもらいました。そうであるなら、私が稲盛さんの近くで長く仕事をさせていただいたことも必然であり、意味があるはずであり、その意味の一つには、私が稲盛さんから学んだことを広く世に伝えることがあると感じているところです。
本記事の内容は、『運命をひらく生き方ノート(約三十年、稲盛和夫氏のもとで学んだこと)』(大田嘉仁・著)より抜粋しています。
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◇大田嘉仁(おおた・よしひと)
昭和29 年鹿児島県生まれ。53 年立命館大学卒業後、京セラ入社。平成2 年米国ジョージ・ワシントン大学ビジネススクール修了(MBA 取得)。秘書室長、取締役執行役員常務などを経て、22 年12 月日本航空(JAL)会長補佐・専務執行役員を兼務(25 年3 月退任)。27 年12 月京セラコミュニケーションシステム代表取締役会長に就任、29 年4 月顧問(30 年3 月退任)。現在は、立命館大学評議員、八坂神社崇敬会常任幹事、日本産業推進機構特別顧問、鴻池運輸社外取締役、MTG 相談役の他、新日本科学等、数社の顧問を務める。平成3年より京セラ創業者・稲盛和夫氏の秘書を務め、経営破綻に陥った日本航空再建時は、意識改革の他、再上場や調達等、多岐にわたり稲盛氏のサポート役を務め「稲盛和夫から最も信頼される男」「稲盛和夫の側近中の側近」とマスコミに取り上げられることも多い。著書に『JAL の奇跡』(致知出版社)『稲盛和夫 明日からすぐ役立つ15 の言葉』(三笠書房)。
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