2021年05月31日
平日お昼のトーク番組「徹子の部屋」でもお馴染み、日本を代表する女優の黒柳徹子さん。その黒柳さんが「尊敬してやまない」と讃えるのが東京大学教授の福島智さんです。福島さんは3歳で右目を、9歳で左目を失明し、14歳で右耳を、18歳でついに左耳の聴力までを失ってしまわれます。しかし、そんな絶望の淵から希望を見出し、見事、それまで例のなかった大学進学を成し遂げます。今回はそんなお二人に〝言葉〟の持つ力について語り合っていただいた対談の一部をご紹介します。
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初めて黒柳さんを「見た」日のこと
〈黒柳〉
どうも福島さん、お元気そうで何よりです。きょうはお会いできるのを楽しみにしておりました(抱擁して再会を喜び合う)。
〈福島〉
こちらこそご無沙汰しております。(黒柳さんの髪型を両手で確認しながら)あれ、ヘアスタイルを変えられました?
〈黒柳〉
いやいや、きょうだけ。テレビに出る時はいまでもタマネギ頭です(笑)。いいですよ、顔も触っていただいて。
〈福島〉
……お若いお肌ですね(笑)。
〈黒柳〉
どうもありがとうございます。福島さんはいま、おいくつになりました?
〈福島〉
50歳になりました。
〈黒柳〉
えぇー、もうそんなになりましたか。『徹子の部屋』に初めて出ていただいたのは、確か20年くらい前でしたよね。
〈福島〉
はい、31歳の時でした。
徹子さんは、知的な部分にせよ、感情面にせよ、凄く柔軟で、水のように流れるような印象があります。
そもそも、コミュニケーションというのは生き物ですよね。その生き物であるコミュニケーションを自在に扱っておられるのが徹子さんで、徹子さん自身がコミュニケーションという生き物に変身しているようなイメージを、直接お目にかかった時に抱きました。
〈黒柳〉
お上手な表現をなさるのね。私はそれ以前からあなたがとても面白い随筆を書いていらっしゃるのを知っていて、非常にユーモアのある方だなと思っていたんです。
番組にはこれまでに2回出ていただきましたが、東大の先生におなりになったと聞いた時は、日本も変わってきたと思いましたね。
ぼくの命はいつもことばとともにある
〈黒柳〉
耳が聞こえなくなったのはおいくつの時?
〈福島〉
右耳が14歳、左耳が18歳の時ですが、聞こえなくなるまでの18年間、目いっぱいいろいろ聞けたこと。また9歳で見えなくなるまでに、様々なものを見たことが、私にとってのエネルギーになっています。
〈黒柳〉
実際に見えなくなったり聞こえなくなったりした時、やっぱり大きなショックはありました?
〈福島〉
見えなくなった時はそれほどでもなかったんです。というのは、古典落語や音楽など、耳を使う世界にすぐ順応していけたから気が紛れたんですよね。
ただ、18歳で完全に聞こえなくなった時は、なんとも言えない感じでした。テレビで言えば、目が見えないのは画面が消えてスピーカーの音が残る感じでしたが、聞こえなくなるということは、そこからさらに音も消えるので、何もない箱になってしまう。
心の中が何も映らない、音のない箱になってしまい、一時的には凄く絶望しました。もう一体どうなるのかと思いましたね。
〈黒柳〉
何が一番辛かったですか。
〈福島〉
話ができないこと、他の人の話が聞けないことです。私から言葉を発せても、相手の反応が分からないと会話になりませんから。
徹子さんが盲学校にいらしたのが1981年の6月頃でしたか、私はその年の1月から3月までの間に耳が聞こえなくなっていった。その頃が一番しんどい時期でした。
〈黒柳〉
私が伺ったのはそういう時期だったんですね。
〈福島〉
はい。非常に深く絶望していた頃です。というのも、その年の3月に母親が「指点字」という新しいコミュニケーションの方法を見つけて、これでやれるかなと一度は思ったんです。
ところが一対一の話は多少できても、皆の話がバラバラに入ってくるので何がなんだか分からないし、周りの様子もまるで掴めないので、さらなる深い絶望を味わっていたんです。僕はもう皆とは相容れないんだ、と。
〈黒柳〉
そうでしたか……。長い時間がかかったと思いますけれど、その絶望をどうやって乗り越えられたのですか。
〈福島〉
助けてくれる人がいた、ということですね。つまり私が抱えている、見えなくて聞こえない世界を共感できる人が出てきたということです。
私の先輩で全盲の女性でしたが、彼女は耳が聞こえない人とも交流があったから、別の発想に繋がったのかもしれません。最初の3、4か月は皆どうすればよいか分からず、指点字で私に話しかけては、話が途切れて、の繰り返しでした。
結局ラジオの野球中継みたいに周りの様子をきちんと伝え、お芝居のシナリオのように発言者が誰かが分かって、初めて聞き手、つまり私はイメージが持てるんです。
〈黒柳〉
状況把握がちゃんとできて。
〈福島〉
それを「誰々さんが何々と言っているようですよ」みたいに言われても、臨場感がちっとも沸かない。そうではなく、徹子さんなら「徹子さん」と打ってから、発言をカギカッコで括れば、誰の発言かがすぐに分かる。
ちょっとの違いのようですが、これは劇的な違いです。それをやってくれる人が現れて物凄い臨場感、リアリティが出てきた。そしてようやく絶望から這(は)い上がるチャンス、きっかけが出てきたんです。
名優・渥美清さんの言葉
〈福島〉
でも私としては、黒柳さんのように芸能界で何十年と活躍を続けておられるのは、本当に大変なことだと思うんです。
〈黒柳〉
それが、私自身は自分の子供に絵本を上手に読んであげられるお母さんになろう、と思ってNHKに習いに行っただけのことで、60年もテレビに出ていようなんて思ってもみなかった(笑)。
芸能界というところは、才能だの顔だのが、とかく問題になりますが、最終的に残るものはやはり個性だと思うんです。この個性というものが、私は最初のうちは「邪魔だ」と言われて、毎日帰らされたり、番組を降ろされたりしていたんです。
ところがそのうちに世の中で個性化が叫ばれるようになって、いままで「引っ込めろ」と言われていたものを急に出せと言われ始めた。
〈福島〉
正反対の注文ですね。
〈黒柳〉
でも仕事を始めて15年目に、これから先もこの仕事を続けていけるものかどうか考えてみようと思って、1年間仕事を休み、ニューヨークへ行ったんです。
そこで学んだのは、女は生きていくのが大変だ、ということ。あの街はお婆さんが凄く多いのですが、「リブ(生きていく)も大変。リーブ(去っていく)も大変」なんて歌も習いました。
そんなある時「ニュースショーを始めるから司会をしてほしい」と日本から連絡があったんです。
〈福島〉
それでもう一度日本へ。
〈黒柳〉
でも私にはあんまり、こうしたい、ああしたいという野望はないんです。いまここにあるものを、どうすれば切りひらいていけるかという考えで生きてきたので。
ただ、努力はしますよ。俳優の渥美清さんは私の芝居をよく見に来てくださったのですが、感想は
「お嬢さん、元気ですね。元気が一番」
といつもそうでした。また長年指導していただいた劇作家の飯沢匡先生も、台本をどう演じればよいかを伺うと
「元気におやりなさい。元気に」
とおっしゃった。
〈福島〉
お二人とも元気が大事だと。
〈黒柳〉
その頃は元気だけでいいのかなと思ったんですが、いまとなれば、どんなに才能があっても、結局、元気でなきゃダメなんだということが分かるんです。
(本記事は月刊『致知』2013年10月号 特集「一言よく人を生かす」から一部抜粋・編集したものです) ◎各界一流プロフェッショナルの珠玉の体験談を多数掲載、定期購読者数No.1(約11万8,000人)の総合月刊誌『致知』。あなたの人間力を高める、学び続ける習慣をお届けします。 たった3分で手続き完了、1年12冊の『致知』ご購読・詳細はこちら。
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東京都生まれ。東京音楽大学声楽科卒業。NHK放送劇団に入団、NHK専属のテレビ女優第一号として活躍。その後、文学座研究所、ニューヨークのメリー・ターサイ演劇学校などで学ぶ。日本で初めてのトーク番組『徹子の部屋』は今年で38年目を迎える。昭和56年に著作『窓ぎわのトットちゃん』の印税で社会福祉法人トット基金を設立。その付帯事業である日本ろう者劇団の活動に力を注ぐ。59年より国連児童基金(ユニセフ)親善大使を務める。
◇福島智(ふくしま・さとし)
昭和37年兵庫県生まれ。3歳で右目を、9歳で左目を失明。18歳で失聴し、全盲ろうとなる。58年東京都立大学(現・首都大学東京)に合格し、盲ろう者として初の大学進学。金沢大学助教授などを経て、平成20年より東京大学教授。盲ろう者として常勤の大学教員になったのは世界初。社会福祉法人全国盲ろう者協会理事、世界盲ろう者連盟アジア地域代表などを務める。