わが国最大の国語辞典『日本国語大辞典』はこうして生まれた

国語学者の故・松井栄一(1926-2018年)氏は、『大日本国語辞典』を著した松井簡治を祖父に持ち、祖父が遺した8万枚に及ぶ「用例採取カード」に囲まれて育ったといいます。辞典の改訂という祖父の志を、早逝した父とともに受け継ぎ、親子三代、100年がかりで編纂した『日本国語大辞典』の出版に秘められたドラマをご紹介いたします

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祖父、父、そして私へ……親子三代で取り組んだ国家的大事業

わが国最大の国語辞典——。一昨年、小学館より刊行された『日本国語大辞典』2には、実に50万項目、100万もの用例が収録されています。参考までに申しますと、『広辞苑』1冊に収められているのは約23万項目ですが、本書はその2倍強の項目数なのに全13巻に及んでいることが大きな特色です。この途方もないと思われそうな辞典の完成までに、祖父の代から数えて100年余り、1,000名以上の協力者を要しました。

この国語辞典の原型ともいえる『大日本国語辞典』の編纂に祖父が取りかかったのは、明治の中頃。その祖父についてはいつも机に向かって何か調べ物をしている姿が思い浮かびますが、辞典づくりの体制やノウハウもない時代に、30年の歳月をかけ、ほぼ独力で20万項目余りの大きな辞典を完成させているのは驚きです。

しかし、辞典はどれだけ注意を払っても、必ず不十分な箇所が出てくるもの。祖父は亡くなる直前まで改訂版のための増補カードを作り続け、その意志を今度は父が受け継ぎました。

ところが、10年も経たないうちに父も病没し、自宅には約8万枚の増補カードが残されました。その頃、大学を出て間もなかった私には、このカードをすぐにどうしようという気持ちもありませんでした。ところが33歳になった昭和35年の夏、カードの存在を知った小学館から「辞典を作らないか」と持ちかけられました。私はいつかはそれを何とかしなければと考えていたので、やれるだろうかという不安を抱きながらも仕事を引き受けることにしました。

祖父は辞典づくりに関してある程度満足のいく生涯を送ったと思うのですが、父は志半ばで亡くなってしまったため、その無念を何としても晴らさなければ、という強い思いがあったからです。

「用例採取」で集められた60万の「用例カード」をひたすら一人で選別

まず辞典づくりの基礎作業として、一枚の紙に、祖父の作った辞典や当時出ていた中・小辞典や特殊辞典の資料約20点を切り貼りし、これに新しく拾い上げた用例カードを添え、項目ごとに一覧できる資料を作成しました。その数、実に60万項目に達しました。

辞典づくりで大切なのは、「用例」が豊富であるということです。用例は、その語がいつの時代に使われていたかという証拠になります。また、読みや表記に関する資料になり、言葉そのものの歴史を知る手がかりにもなります。つまり、用例の数が辞典の出来栄えを左右するのです。私を含め依頼した部会のメンバーは、膨大な量の資料の中から、用例を拾い上げてカード化していきました。

この他に大変だったのは、60万に及ぶ見出し候補を予定の巻数に収めるため、40万に絞るという作業。うずたかく積み上げられた資料の山を前に、毎日1,000項目ずつのペースで、入れる、捨てるの選別作業を一人でひたすら行いました。こうして決めた項目の資料を約200名の執筆者に回して原稿を作ってもらいます。

しかし、本当に大変だったのはその後です。集まった原稿の表現の統一、使われた用例を、決めた底本に当たって確かめる作業などに多大の時間を要しました。全20(初版)のうち、2巻分くらいの作業を終え、完成までの日数を推計してみたところ、「100年」という数字が出てきたのです。

この年数をいかにして数年に縮めるかと考えた末、小学館は「日本大辞典刊行会」という会社を設立し、この辞典に専心できる社員を雇いました。これだけ大規模な仕事となれば、印刷所もそれに向けた体制を組んでいるため、予定通りに進めないと多大な損害を与えてしまうことになりかねないからです。

当初は20名程度だった社員も、多い時には90名を超え、中には教職をなげうって尽力してくださる方まで現れました。

そうしてようやく完成した第1巻。生来、神仏を信じない私ですが、その時だけは父の仏前に辞典を供え、「できたよ」と手を合わせました。

「辞典づくりは、親が赤ん坊を育てるように、だんだん育っていくのを見る楽しみがある」

1巻が出てからは予定通り2か月に1巻刊行というペースを守らなければなりません。朝早くから出社して午後9時まで作業、帰宅してから寝るまで作業、土曜、日曜もない、辞典にどっぷり浸かった3年間でした。やがて無事、全20巻を刊行した折には、知人から「どうしたんだ?」と心配されるほど、頬がこけていました。

完成した辞典を改めて見直すと、本来なら国家でやるような大事業を、民間の一出版社がよくやってくれたなと思います。社内では「時間ばかりかかって金を食う仕事をいつまで続けるんだ」という批判の声もずいぶんあったようですが、歴代の編集長が会社の幹部と必死に交渉したこと、小学館社長が「わが社として絶対にやるべき企画だ」と節を曲げなかったこと、そして何より多くの協力者が専心し、仕事に打ち込んでくださったことで、未曾有の大辞典は完成しました。

初版を制作していた当時は、とにかく時間との闘いで振り返る余裕もありませんでしたが、最近になって祖父の口にしていた「辞典づくりは、親が赤ん坊を育てるように、だんだん育っていくのを見る楽しみがある」という言葉が実感できるようになってきました。

冒頭でも述べたように、辞典は完成したその日から、改訂版に向けての準備を始めるもの。私の書斎には、何万という増補カードがいまや遅しとその出番を待ち受けています。


(本記事は月刊誌『致知』2005年7月号「教育維新」から一部抜粋・編集したものです)

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◇松井栄一(まつい・しげかず)——辞典編集者

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