「きつい顔はしていい。でも、嫌な顔はするな」——有森裕子が名伯楽・小出義雄監督から教わったこと

陸上女子長距離の指導者として、数々のメダリストランナーを育てた名伯楽・小出義雄監督。その小出監督から薫陶を受け、バルセロナ五輪で銀メダル、アトランタ五輪で銅メダルを獲得し、マラソン界で日本人女性初となる2大会連続のメダルに輝いたのが、有森裕子さんです。先天性の股関節脱臼を抱え、学生時代は無名だった有森さんは、小出監督との邂逅を果たし、いかにして自らの運命を切り開いてきたのでしょうか。小出監督率いるリクルートに入社間もない頃を振り返っていただきました。
(本記事は月刊『致知』2026年10月号 特集「運をつかむ」から一部抜粋・編集したものです)

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「お前は体の素質はないが、気持ちの素質は世界一だ」

リクルートでは週1、2回の出社日を除き、朝6時半から練習漬けの毎日でした。小出監督はタブー破りの名人で、女性が月間800キロも走り込むのは不可能だといわれる時代に、月間900キロの練習を課していました。900キロといえば、一日平均で30キロ。凄まじい練習量に圧倒されました。

また、同期の5人は皆、学生時代から全国の舞台で活躍してきた格上の選手ばかり。私が全力で走ったところでついていけるはずもなく、いつも最下位でした。

救いだったのは、監督が「何時間かかってもいいから、メニューは全部こなせ」と指示してくれたことです。できないからメニューを減らすのではなく、他の選手が練習を終えていても最後まで待ってもらえる。私にとってはこれが嬉しくて、おかげで根気強く走ることができたように思います。

「練習中、きつい顔はしていい。でも、嫌な顔はするな」

これも小出監督の口癖でした。嫌な顔をしながら練習をしたところで何も身につかないし、周りに悪影響を与える。きついと嫌は全く別なのだと腑に落ちました。

こうして必死に練習を重ねたものの、思うようにタイムは上がらず、目標としていた1万メートル走の選手として国体に出ることは叶いませんでした。どうすればいいのだろうかと思い悩んでいたその時、タイミングよく訪れたのがマラソンの世代交代です。

川崎製鉄千葉の主力として活躍されていた小島和恵さんを筆頭に、当時のトップランナーたちが次々と引退し、一時的に日本マラソン界のレベルが下がっていました。スピードがない以上、伸ばせるのは持久力しかないと思い立ち、自ら申し出てマラソン選手の練習に参加させてもらいました。その結果、先輩選手には敵いませんでしたが、挫けることなく最後までついていくことができたのです。

「お前は体の素質はないが、気持ちの素質は世界一だ。気持ちがあれば、体の素質の人間を超えられるかもしれない。途中でカタンとならないなら、マラソンでいける」

監督の賛同を受け、本格的にマラソンランナーとしての挑戦が始まりました。この転向は粘り強い私に効果覿面で、みるみるタイムが伸びていく。1990年の大阪国際女子マラソンでは6位入賞を果たし、2時間32分51秒のタイムで初マラソンの日本最高記録(当時)をマークしました。


~本記事の内容~(全4ページ)
◇日本マラソン界の基礎を打ち立てた名伯楽
◇諦めない心の原点
◇根拠のないやる気でつかんだリクルート入社の切符
◇「きつい顔はしていい。でも、嫌な顔はするな」
◇〝なんで〟と思うな 〝せっかく〟と思え
◇いい人と出逢えるかではなく、出逢った人から何を学ぶか

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◇有森裕子(ありもり・ゆうこ)
昭和41年岡山県生まれ。平成元年日本体育大学を卒業後、リクルートに入社。小出義雄監督の指導のもと、研鑽を積む。バルセロナ五輪女子マラソン銀メダル、アトランタ五輪女子マラソン銅メダルを獲得。8年日本人ランナー初のプロ宣言。10年NPO法人「ハート・オブ・ゴールド」設立、代表理事就任。19年現役引退。27年モニサラポン・マハーセレイワット勲章。令和7年女性初の日本陸上競技連盟(JAAF)会長に就任。著書に『やめたくなったら、こう考える』(PHP新書)『わたし革命』(岩波書店)など多数。

◇小出義雄(こいで・よしお)
昭和14年千葉県生まれ。高校卒業後、苦学の末に36年、22歳で順天堂大学入学。千葉県立佐倉高校、市立船橋高校などで教鞭を執った後、リクルート・ランニングクラブ、積水化学女子陸上競技部監督を務める。平成14年に佐倉アスリート倶楽部を設立。31年4月24日逝去。著書に『君ならできる』『へこたれるもんかい』(共に幻冬舎)など多数。

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