2025年07月21日
世田谷の住宅街の一角から串カツ専門店「串カツ田中」をスタートし、僅か11年で東証一部上場へと導いた貫啓二氏。しかしその道のりには借金、倒産の危機など、様々な困難があったといいます。どん底から這い上がってきた歩み、「串カツ田中」誕生秘話を語っていただきました。対談のお相手は、焼鳥屋「鳥貴族」を徒手空拳で立ち上げ、居酒屋チェーンとして日本一の店舗数へと育て上げてきた大倉忠司氏です。
(本記事は月刊『致知』2025年7月号 特集「一念の微」より一部抜粋・編集したものです)
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苦節10年で辿り着いた天職
〈大倉〉
貫さんの創業の原点は何度聞いてもドラマチックですよね。
〈貫〉
結果的にはそうなんですけど、僕は夢やビジョンもない、本当に無計画な人間でした。大阪の町工場で働く両親の元に生まれ、幼い頃からいい会社に入れと言い聞かされて育ち、高校卒業後はトヨタのグループ会社に入りました。仕事は好きでしたね。働けば働くほど評価されましたから。寝る暇も惜しんで一所懸命やりました。
その傍ら、休日にイベントを催すようになりました。フリーペーパーの広告で集客し、バーベキューやスノーボードといった皆が喜ぶ企画を立てると、友達は増え、僕も遊べる上、お金まで稼げる。サービス業の面白さを肌で感じました。
会社員として生きていくことに不満はありませんでしたけど、多くの人で賑わう自分の店を開きたいと思い立ち1998年、27歳の時に10年間勤めた会社を辞め、大阪でバーを開業しました。
〈大倉〉
未経験で飲食業界に飛び込まれた。
〈貫〉
バーを選んだのは料理をつくれないから(笑)。友達は大勢いたので、お酒を出すだけなら何とかなるだろうと睨んだわけです。
ただ、オープンから4日後には「なんてことをしてしまったのだろう」と後悔に襲われました。休みもなければ連日赤字続き。それでも、兄が連帯保証人になって金融機関から借金をした以上、もうあとには引けませんでした。
転機となったのは開業から1か月経った頃、幼馴染が「スタッフにどうか」と1人の女性を紹介してくれました。その人物こそ、かつて当社で副社長を務め、店名の由来にもなった田中洋江です。彼女に薦められて始めたのが目標ノートでした。拙い内容でしたけど、目標を書き出すことでやるべきことが明確になり、徐々に売り上げも上がっていったんです。
〈大倉〉
貫さんも出逢いによって運命が開けていったんですね。
〈貫〉
ええ。多くの知人からお金を借り2001年、当時流行していたデザイナーズレストランを大阪の堀江にオープン。すると、お洒落な店構えがメディアで脚光を浴び、たちまち店は大繁盛でした。続いて2004年には東京の表参道に京懐石料理店を出店しました。
傍から見れば波に乗る若手経営者だったと思いますが、経営の悩みは尽きませんでしたね。金融機関への返済に追われて生活は全く楽ではありませんでしたし、SNSで簡単に繋がれる時代ではなく、相談できる経営者仲間もいません。極めつきは2008年9月、リーマンショックが発生してお客様は激減。負債が1億円以上に膨らみ、倒産の危機に陥りました。
この時ばかりは自分の無力さを痛いほど思い知らされましたね。もう飲食から身を引くしかない。そう決心しましたが、飲食の神様はまだ僕のことを見放していなかった。二人三脚で歩んできた田中に大阪へ戻るための荷造りをさせていると、田中の自宅から田中の父親が残した串カツのレシピが偶然見つかったんです。
実は、田中は幼い頃から父親のつくる串カツが大好きで、いつか串カツ屋をやりたいとよく話していました。しかし、父親のレシピなしでは納得のいく品をつくることができず、しぶしぶ断念していたんです。早速レシピ通りにつくってみると、これが驚くほどおいしい。このまま何もしなければ倒産は免れません。どうせ潰れるなら最後にやりたいことをやろうと、串カツ屋を出すことにしました。
〈大倉〉
まさに最後の勝負に出た。
〈貫〉
当然お金はないので、世田谷の住宅街にある14坪の居抜き物件を借り、店内の施工は大工さんと自分で行う。厨房機器などはオークションで競り落とし、出店費用を300万円に抑えました。こうして田中の親父の背中を感じる店にしたいという思いを店名に込め、2008年12月に「串カツ田中」をオープンしたんです。
思い出づくりのつもりでしたから、期待はしていませんでした。ところが、いいものを安価で提供する方針が好評を博し、開店早々から連日満席が続きました。初期投資を1か月で返済、1年半後にはすべての借金がなくなりました。
この時に先ほど大倉社長がおっしゃった、自分がつくった料理を「おいしい」と言ってもらえる喜びを知ったんです。「ああ、この道に一生を捧げよう」。それまでは生きた心地のしない毎日でしたが、串カツに出逢って初めて覚悟が決まりました。独立して10年後にようやく天職に辿り着いたんです。
本記事の内容 ~全10ページ(約14,000字)~
◇10年以上にわたり親交を深めてきた間柄
◇海外での成功なくして将来はない
◇出逢いによって導かれた焼鳥の一道
◇苦節10年で辿り着いた天職
◇全メニュー均一価格で見出した光明
◇全従業員の物心両面の幸福を追求する
◇理念は人生を豊かにするための道標
◇かくしてコロナ禍の危機を乗り越えてきた
◇最後に残るのは人間力 成功するまで諦めない
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◇貫 啓二(ぬき・けいじ)
昭和46年大阪府生まれ。平成元年高校卒業後、トヨタ輸送入社。10年ショットバーを大阪市内に開業。14年ケージーグラッシーズ(現:串カツ田中ホールディングス)を設立、同社社長に就任。様々な飲食業を営んだ後、20年「串カツ田中」1号店を東京・世田谷にオープン。令和元年東証一部(現・スタンダード)上場。4年より現職。現在、串カツ田中は直営店、FC店合わせて約330店舗を展開している。
◇大倉忠司(おおくら・ただし)
昭和35年大阪府生まれ。54年調理師専門学校卒業後、大手ホテルのイタリアンレストランに勤務。地元の焼鳥店を経て、60年「鳥貴族」1号店を東大阪市内に開業。61年イターナルサービス(現:エターナルホスピタリティグループ)を設立、同社社長に就任。平成28年東証一部(現・プライム)上場。現在、鳥貴族は直営店、FC店合わせて約650店舗を展開している。著書に『鳥貴族「280円均一」の経営哲学』(東洋経済新報社)がある。
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