2025年04月06日
◎各界一流プロフェッショナルの体験談を多数掲載、定期購読者数No.1(約11万8,000人)の総合月刊誌『致知』。人間力を高め、学び続ける習慣をお届けします。世界的なスポーツ用品ブランド・アシックス元社長CEOの尾山基さんが語る、創業者・鬼塚喜八郎氏の素顔とは。対談のお相手は、J.フロントリテイリング社長(肩書は掲載当時)の山本良一氏です。
(本記事は月刊『致知』2017年4月号 特集「繁栄の法則」より一部を抜粋・編集したものです)
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スリーピング・タイガーを叩き起こせ
<尾山>
私が影響を受けたのは、やっぱり創業者の鬼塚喜八郎ですね。
あの人がすごいのは、とにかく徹底してお客様を見ていたことです。創業当初は問屋さんにも小売屋さんにも相手にされなくて、自分で直接競技会場を営業して回っていたんですけど、そうした苦労を重ねてきた経験から、問屋さんや小売屋さんの先にいらっしゃるお客様のことは、すごく見ていました。
私もその姿勢には随分感化されましたね。
それから印象に残っているのは、1992年のバルセロナ五輪の時のことです。鬼塚は、当時IOC会長だったサマランチさんと開発途上国へのスポーツ用具寄贈などで協力関係を築いてきたんですが、2人が面会する際に、私が急遽通訳を務めることになりましてね。
サマランチさんのお話を訳したら、「彼は絶対にそんなことを言うわけがない」と言うんです。鬼塚の頭の中には、サマランチさんの過去の発言が全部入っていて、彼はそんな発想はしないはずだと。あれはすごかったですね。
<山本>
鬼塚さんは、リーダーとしての尾山さんをどのようにご覧になっていたのでしょうね。
<尾山>
鬼塚に息子がいなかったので、周囲からは私が後継者と見られていましたが、鬼塚はそういうところは非常に厳しく見ていましたね。
最初に役員になる機会が巡ってきた時も鬼塚の反対で見送られましたし、そもそも入社当初から、会社の本流ではないウオーキングシューズ事業や海外事業をずっと歩んできました。マイナスの所ばかり行かされてきたわけですが、それらを収益の柱に育て上げることで自分の存在価値を示してきたんです。
たぶん山本さんも一緒だと思いますけど、ファイターだからそういうのが楽しいんです(笑)。
<山本>
社長に抜擢されたのはどういうきっかけでしたか。
<尾山>
いやいや、抜擢なんかじゃないんです(笑)。昇格も随分遅れていましたしね。
それでも絶対的な実績さえ残せばいいと考えて自分の仕事に打ち込んだ甲斐あって、ウオーキングシューズ事業は30億円を90億円まで伸ばし、大赤字を出していたヨーロッパ部門も黒字にして配当が出せるようになりました。
あの時は、バスケットボールを一緒にやっていた大先輩が、わざわざオランダまでお祝いの電話をかけてきて、「おまえすごいな。俺は嬉しいよ」って喜んでくれたのがいまも印象に残っています。
<山本>
ウオーキングシューズ事業を手掛けられた頃は、会社の業績がとても厳しい時期だったそうですね。
<尾山>
ライバルのナイキはスニーカーで大ブームを巻き起こしていましたが、当社はバブル崩壊の影響や、商品のデザイン性に乏しかったことなどから、1998年度まで7期連続の赤字で、株価も一時60円まで落ち込んでいました。「アシックスはスリーピング・タイガー(眠る虎)だ」とまで言われて、脳裏には「倒産」の二文字がハッキリ浮かんでいましたね。
しかし、厳しい状況に陥ったことで、逆に自分たちが本当に強い分野は何かを真剣に見つめ直すことができました。
当社の歴史は、鬼塚が全くの素人からスポーツシューズをつくったところから始まりました。私は、この苦境を打開するには原点回帰しかないと考えて、ランニングシューズに経営資源を集中する戦略を打ち出しました。幸いにも健康志向の高まりで世界中にランニングブームが広がり始めましてね。
2003年に年間70万足しか売れなかった比較的値段の高いモデルのランニングシューズが、2004年には136万足も売れて、スリーピング・タイガーを叩き起こすことができたんです。