誰もが手話を学ぶことのできる世界を目指して〈DeafLinks手話協会代表・中村藤乃〉

 
DeafLinks手話協会、日本手話文化協会の代表を務める中村藤乃さんは、ろう者によって人生のどん底から救われた過去を持ちます。以来、恩返しの一心で手話普及に取り組み約20年。病や自殺未遂という人生の逆境を越え使命に生きる中村さんに、これまでの歩み、未来への展望を伺いました。(画像提供:DeafLinks手話協会)

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与えなさい、与えなさい

〈中村〉
自動車工場で作業をしながら、私は一人涙が止まりませんでした。大学に進学したい、女手一つで育ててくれた沖縄の母に裕福な暮らしを届けたい──その思いでひと月前に三重県に出稼ぎに来た矢先、子宮の上皮腫瘍が発覚したのです。

これから先、一体どうなるのだろう……。自動車のプラグを片手に、ポロポロと涙が零れて止まりません。

母に心配をかけぬよう、病気のことは口外せずに病院と工場を行き来する生活を送っていた、そんな時でした。

ある日、同じ職場で働くろう者の先輩が私の異変を察知し、筆談で語りかけてくれたのです。

「大丈夫? 元気ないよ?」

その出逢いこそが、手話の世界に入る原点となりました。

それまで先輩とは特段接点がなかったものの、私の異変に気づいて以来、毎日のように「元気? 頑張って」と言葉を掛けてくれるようになりました。

周りに病状を打ち明けることができず、孤独と闘っていた当時は、自殺の2文字が脳裏をよぎることもしばしばでした。それだけに、気にかけてくれる先輩の存在は心の支えとなり、何より先輩が聴者を部下に持ち、指示を出す姿には胸を打たれました。耳が聞こえないハンディを抱えながらも、なお前に進まんとする姿は、力強さに満ちていたのです。

翻って、五体に恵まれながら、さも人生が終わったかのように思い悩んでいた自分の弱さに、初めて向き合うきっかけとなりました。

命を絶つより、いまの私にできること。それは、人生に再び向き合うきっかけを与えてくれた手話の世界に恩返しをすることだ──生きる意欲が湧いてきた瞬間でした。

恩に報いるべく「聴者とろう者が手話で交流するコミュニティーを創る」という目標を立て、早速国内で唯一、専門的に手話を学べる機関への入学を決意。受験勉強と貯金づくりに奔走し、21歳、2度目の受験で合格しました。

ところが卒業を控えた時のことでした。かねて患っていた腫瘍の悪化を知らされます。

幸い、同じ学寮に住む学生が受診を勧めてくれたことで躁鬱病の発症に気づくことができましたが、当時はストレスから、無意識にコンビニエンスストアで袋いっぱいの食品を購入。学寮に戻って、大量に食べては吐くような生活を数か月続けていたようです。

それからしばらくは、腫瘍と鬱病の治療が続きました。それでも手話普及の夢は諦めきれず、通院しながら手話講師として、できる範囲の活動を続けていったのです。

けれども、当初は近所の喫茶店を使ってレッスンをするような、非効率な体制だったこともあり、予約は一時3か月待ちの状態に。手話の需要の大きさを実感すると共に、1人の無力さに直面した私は、これでは手話の世界に恩返しができない、普及のための基盤をつくり、より多くの方に手話を届けたいとの思いを募らせていきました。

病状が回復した2019年、31歳で㈱DeafLinks手話協会を設立。翌年には、念願だったろう者と聴者共通のコミュニティーであるオンライン手話アカデミーを開校し、手話普及の基盤づくりに着手しました。

レッスンによる地道な普及とSNSでの発信も奏功し、序盤から数百人の会員が集まる順調な船出でしたが、聴者が手話の世界で事業を行うことに対しての逆風は、思いのほか強いものでした。

「聴者に何ができる」「どうせ金目的だろう」。心ない言葉を受けたことは数えきれません。時に、手話の普及という共通の立場にある同業者から敵視されることもあり、ある意味で闘病より苦しいものがありました。こんな状況は絶対におかしい。そう思いつつ、内心では挫けかけたこともあります。

それでも、自分は手話の世界に命を救われた身、恩返しをすると決めたのだから必ずやり遂げる。最後はその意地だけでした。

「常に与えなさい。与えればいつか幸せが返ってくる」

幼い頃から、母に言い聞かされていた言葉です。何かを得るためではなく、人が喜ぶために生きなさい。昼夜を問わず働き、命懸けで3人の子供を育ててきた母の実感でもあったのでしょう。

「与えなさい、与えなさい」

その先に何が返ってくるのかを母が語ることは、決してありませんでした。しかし、手話普及の道を歩んで約20年。現場では、「数十年間睡眠薬なしでは眠れなかったけど、薬をやめることができた」「失語症を克服できた」など、聴力の有無に拘らず、人生に悩みを抱える方が、手話を通じて生きがいを取り戻す様子を幾度となく目にしてきました。

いまでは母の言葉通り、恩返しをするはずの私が、逆に手話の世界から幸せをいただいていることを実感します。

現在、当社が提供する教育プログラムの利用者が約3万人を数えるなど、手話の輪は着実に広がってきています。運営する手話アカデミーでも聴者の参加者が6割を占めるように、いまや手話はろう者に限らず、誰もが学び、使うことのできる立派な言語となりました。

それでもまだまだ道半ば。いつか日本語や英語と同じように、手話を学ぶことができる世界の実現を願って、これからも手話の魅力を届け続けます。

                 〈子供たちに手話を教える中村さん〉

(本記事は月刊『致知』2024年6月号 特集「希望は失望に終わらず」より記事を編集したものです)

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◇中村藤乃(なかむら・ふじの)
昭和63年沖縄県生まれ。学生時代に手話の魅力に気づき手話を学び始める。高校卒業後、工場勤務時代に子宮の上皮腫瘍が発覚。絶望のさなか、職場のろう者に救われたことをきっかけに手話の世界に入る。2019年、31歳で㈱DeafLinks手話協会を設立。ろう者と聴者共通のコミュニティーであるオンライン手話アカデミーの運営や、手話の教材を手掛ける。著書に『手話教室を始めるための7つのステップ 手話を楽しむ生き方』(セルバ出版)。

 

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