2024年12月23日
ウィッグメーカー・スヴェンソンの経営トップとして、顧客リピート率95.7%という驚異の満足度を成し遂げた兒玉圭司氏。かつて日本卓球界の全盛期を牽引し、代表監督として計17個の金メダルをもたらした異色の経歴の持ち主です。今回は、兒玉氏が代表監督の経験から学んだことについてお話しいただきました。※対談のお相手は、再生医療を可能にするiPS細胞を世界で初めて発見し、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥氏です。
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自ら発心してやる努力は驚くような結果を生む
〈山中〉
兒玉会長はどういうきっかけで卓球を始められたのですか。
〈兒玉〉
私が卓球と出逢ったのは、中学3年の春休みです。小さい頃から運動が得意で、中学に入ると仲間と一緒に地域のスポーツ大会にしょっちゅう参加していました。
ある日、水泳大会が終わって校舎に帰ってくると、講堂で高等女学校の生徒たちが卓球をやっていましてね。一糸乱れぬラリーを見ていたく感動したんです。
当時は戦後間もない頃で、東京にもまだ娯楽施設はほとんどありませんでしたが、卓球場は至る所にあり、たくさんの人が卓球に興じていました。試合に勝った人はずっとプレーし続けることができるんですが、1回負けると1時間くらい待たなきゃいけない。
どこの卓球場にも主みたいな強い人がいて、当然ながら最初は全く歯が立ちません。もう負けて、負けて、負け続けて、この人に勝つにはどうしたらいいかって一所懸命研究しましてね。朝9時から夜9時まで、毎日卓球場に通い詰めました。
〈山中〉
とことん卓球に没頭された。
〈兒玉〉
そうしたら春休みが終わる頃には、ある程度勝てるようになったんです。高校では卓球部に入りましたが、部内にあまり強い選手がいなかったので、強豪校へ出稽古に行ったりもしました。
それで高校2年の時に全日本ジュニアの東京都代表、3年生の時に国体の東京都代表に選出され、大学3年で日本代表として世界選手権に出場し、シングルスでベスト16まで勝ち進んだんですね。
卓球を始めて5年半という短い期間で日の丸をつけることになったんですが、密度は普通の人の倍くらいはあったと思います。
〈山中〉
いやぁ、2倍どころか3倍くらいあったんじゃないですか。
〈兒玉〉
朝は4時に起きて、4~5キロのランニングをしていました。これは誰に言われたわけでもありません。卓球は足腰を鍛えることが大事だということで、自ら発心し、寝る間も惜しんで努力したんです。それがまずまずの結果を生んだのだと思います。とにかく卓球が好きで好きで仕方ありませんでした。
卓球で掴んだ信条が企業経営の根幹
〈山中〉
そういう姿勢が世界選手権ベスト16という結果をもたらし、さらには日本代表監督の抜擢へと繋がっていくわけですね。
〈兒玉〉
はい。現役時代に世界選手権で12個の金メダルを獲得し、ミスター卓球と呼ばれた荻村伊智朗さんとともに、日本代表の男女の監督をやってほしいと、日本卓球協会から打診があったんです。荻村さん31歳、私29歳の時でした。
私は大学卒業後、すぐに母校である明治大学卓球部で助監督を務め、3年後に監督に就任する一方、卒業の翌年に兄と2人でエレベーターメーカーを起業したんです。まだよちよち歩きの会社でしたので、打診を断るつもりでした。
ところが、早起きが大の苦手だった荻村さんが、朝6時に私の自宅に来ましてね。「将来の日本卓球界のために何とか2人で頑張ろうじゃないか」って、すごい熱意で勧誘されたんです。また、大学時代の恩師から「人から何かを依頼されるのは非常に名誉なことだ。そういう仕事は自分がやりたいと思ってできるものじゃない。だから、多少無理をしてでも腹を括ってやるべきだ」と言われました。これらの言葉に心を打たれ、引き受けることに決めたんです。
〈山中〉
日本代表監督として、最も学ばれたことは何ですか。
〈兒玉〉
努力は才能に勝る、思いは叶う、絶対に諦めない執念、大きくはこの3つですね。
私たちは頂点に立つため、世界の卓球史に残るくらい厳しい練習をやろうと決めました。40センチの雪が積もる真冬の日、暖房のない小学校の体育館で、朝9時から訓練をやりました。ラリー2,000本ノーミスとか、1分間70本のフットワークとか、20キロマラソンの後、5時間の技術練習とか。1つの課題をクリアしないと次の課題には移らない。
ある時、ツッツキ打ち1,000本ノーミス(999本でミスしたら最初からやり直す)という課題を朝9時に始めて、他の選手は夕方5時頃までに終わったんですけど、1人の男子選手が夜の9時を過ぎても終わらない。それでも決して妥協せず何度も挑戦し続け、結局夜中の2時にクリアしました。
やっぱり一つひとつ目の前の課題をやり切る。それを習慣にすることで、世界で闘える技術力と精神力が鍛えられていくんです。
〈山中〉
そういう凄まじい努力があって初めて、世界で通用するのでしょうね。
〈兒玉〉
事業経営の傍ら、10数年間日本代表の監督を務めたわけですけど、卓球での体験をとおして掴んだ信条こそが、私の企業経営の根幹を成しています。
(本記事は月刊『致知』2016年10月号 特集「人生の要訣」より一部を抜粋・編集したものです)
◉本対談では11ページにわたり、ともにそれぞれの道を極めてこられたお2人に様々なテーマで対話をいただきました。
・謙虚で思いやり溢れる人柄に感動した
・iPS細胞の実用化はここからが本当の勝負
・人の役に立ちたいという思い
・「おかげさま」と「身から出たサビ」
・予想外の出来事を楽しめるか否か
・導かれるようにして辿り着いたiPS細胞
・50歳で全く未知の新しい事業にチャレンジ
・お客様への感動をいかにして生み出すか
・よりよい人間関係の中によりよい自分がある
・目の前の仕事に一所懸命尽くす
・成功の秘訣は「VW」にあり
〈致知電子版〉では全文お読みいただけます
◇山中伸弥(やまなか・しんや)
昭和37年大阪府生まれ。62年神戸大学医学部卒業後、整形外科医を経て、研究の道に進む。平成5年大阪市立大学大学院医学研究科修了。アメリカ留学後、大阪市立大学医学部助手、奈良先端科学技術大学院大学遺伝子教育研究センター助教授及び教授、京都大学再生医科学研究所教授などを歴任し、22年より現職。アルバート・ラスカー基礎医学研究賞、ウルフ賞、ノーベル生理学・医学賞受賞。
◇兒玉圭司(こだま・けいじ)
昭和10年東京生まれ。31年第23回世界卓球選手権大会に出場し、シングルスベスト16。33年明治大学卒業後、兄と共にエレベーターメーカーのダイコーを創業。その傍ら、世界卓球選手権大会などで日本代表選手団監督を務め、累計で金17個、銀13個、銅24個のメダルをもたらす。60年スヴェンソンを設立し、同社社長に就任。平成27年より現職。著書に『強い自分をつくる法』(東洋経済新報社)がある。
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