2024年12月19日
~本記事は月刊『致知』2024年12月号掲載記事を一部編集したものです~
若き日のモットー 「一人だけの祝祭」
昭和49年創業の弊社は、今年令和6年で50周年の節目を迎えます。この間、各中央省庁や地方自治体と連携しながら地域が抱える様々な問題の解決に力を尽くしてきました。大都市、地方都市の街づくりのプラン策定はもちろん、震災や原発事故の被災地、限界集落、離島まで、住民の皆様に寄り添いながら「地域まみれ」となって事業の提案、実現に邁進してきました。
50周年の今期、年商100億円という目標を達成。社員数は160名を擁するまでになりました。僅か五万円の資本金で創業した当時を思い起こすと、まさに隔世の感があります。
私は子供の頃から、人とは少し違った生き方をしてきた人間です。仲間と群れることを好まず、京都大学で建築を学んでいた頃は、一人で雪山にそれも荒天を選んで登りました。夜の御所、寺社を考え尽きるまで彷徨し、鴨川の上流に倒れ込むまで走りました。自らを鼓舞し、痛め、自分を自分で褒めてあげる「一人だけの祝祭」に酔っていたのです。そこには一度切りの青春を浪費したくないという強い思いがありました。
その後、憬れの丹下健三先生、鈴木成文先生を目標として東京大学大学院に進み、博士課程を終えました。大学の研究者になるのが目標でしたが、卒業に当たって大きな壁に直面しました。当時は東大紛争の真っ只中。2年間待っても紛争は収まらず、東大はもとより他の大学からオファーがかからないのです。これ以上、無駄な時間を過ごせないと思った私は30歳の時、東京・高井戸にある4畳半のアパートで、単身で都市計画の会社を起業しました。いま思うと、これも青春の終わりへの「一人だけの祝祭」だったのでしょう。
当然、最初から自治体の指名業者になれるはずもなく、下請け、孫請けからのスタートでした。しかし、「孫請けでもいいので手伝わせてください」と頭を下げて回っても実績のない若者にはなかなか仕事を回していただけず、2年ほどは食うや食わずの窮乏生活が続きました。
お釈迦様の残された「天上天下唯我独尊」という言葉があります。私は学生時代からこの言葉の真意を探究してきました。窮乏生活の中、ふと「我とは、与えられた自分の命だ。尊いこの命を生涯をかけて強く正しいものにして天にお返しするのが人としての道。いまは命を鍛えに鍛え抜いている時期なんだ」との思いが込み上げました。この気づきが「人生をいかに選ぶか、いのちのちから論」として生涯を生きる支えとなっているのです。
飛躍のきっかけとなった塩田跡地の街づくり事業
下請け、孫請けの仕事が認められ、少しずつ業績が出始めた頃、当社に飛躍をもたらす仕事との出合いがありました。国の方針で塩田が廃止された香川県宇多津町における街づくりプランの策定です。
宇多津町では塩業に携わる約200名が廃業に追い込まれており、180ヘクタールの広大な塩田跡地を活用した新たな街づくりと、それによる雇用の創出が課題となっていました。私の元にたまたま塩業組合長から寄せられた相談がこの事業に関わるきっかけでした。私は行政や住民を巻き込みながら夜を徹して街づくりのプランを練り、結果的には16年の歳月をかけて都市計画道路や公共施設の整備、企業誘致などが実現。誰も住まない塩田跡地は五千名の町として生まれ変わったのです。当社の「地域まみれ」の姿勢はここから始まったと言ってよいでしょう。
平成7年の阪神・淡路大震災も転機となる出来事の一つです。私たちは震災の翌日、すぐに神戸に向かい、お借りした空き店舗を拠点に被災した人たちの相談、救援活動を始めました。
困窮地域には利益を求めず無償の貢献を行う。必要であれば、自社資金、自社社員を投入してでも課題解決を図る。大震災以降、これが弊社の方針となりました。そこで出た要望を各省庁や地方自治体、業者に伝え、再建プランを共に練っていくのです。東日本大震災や原発事故、熊本地震、能登半島地震などでも無償の支援事業に積極的に取り組み、被災者の皆様からはとても喜んでいただくことができました。
一般に街づくりといえば、大手シンクタンクが提案したプランを頼りに進められるイメージがありますが、当社はどこまでも地域の人たちと寄り添うことを重視しています。地域の人々に徹底して寄り添ったプランであってこそ誰もが納得できる街づくりができると思うのです。
「与えられた命を強く大切に」いのちのちから論
創業以来、私は働き詰めでした。休日もほとんどなく、短い睡眠時間で仕事を処理し、大きな災害が起きれば真っ先に現地に駆けつけて、吹きさらしの小屋を事務所として泊まり込み、被災者の支援に当たるのが常でした。そういう無理が祟ったのでしょうか。創業5年目には脳腫瘍を患い、以来、左膝・右膝の人工関節手術、前立腺がん、突発性の脳神経障害、急性心筋症など今日まで様々な病気と向き合ってきました。
最も深刻だったのが40代後半で患った前立腺がんで、既にリンパにも転移し余命3年と宣告されました。幸い全摘手術が成功。それは医師の口から奇跡という言葉が出るほどでした。当時私は、事ある度に、神奈川県伊勢原市にある日向薬師に詣でていました。大山に沈む夕陽を浴びながら、命をお救いくださったお礼を唱え続けている時でした。体の奥底から「与えられた命を強く大切に」という言葉が響いてきたのです。それは自分の魂の声であるかのようにも感じました。
その後も脳梗塞で3回倒れたりと私の人生において病は常に身近なものでしたが、不思議なことにその都度、大事に至ることなく命を与えられて80歳の今日に至っています。きっとまだ果たすべき使命と責任があるのでしょう。
「地域まみれ」を窮めてこそ解決への本質が見えてくる
冒頭、50年間歩み続け、目標を達成したと述べました。これは、がむしゃらに数字を追ってきたわけではなく、むしろ必要とあれば手弁当で全国各地の課題の解決に向き合ううちに地域との信頼が生まれ、目標に達していたというのが正直なところです。実際、「地域まみれ」を窮めてこそ、解決への本質が必然的に現れてくるものなのです。
当社のDNAであるこの「地域まみれ」の姿勢はこれからも変わることがありません。今後は、業務をいたずらに求めることなく、地域に寄り添う心と行動力を身につけた社員たちが子会社として独立し、それぞれの地域に骨を埋める覚悟で根を張ってくれることが私の望みです。私自身も途切れることなく地域へ入り、泊まり込み、多くの方々と話し合い、地域再生への炎を燃やし続ける覚悟です。
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