思いのままになる人生であったなら、私は涙というものを知らない人間になっていた〈『氷点』作家・三浦綾子〉


処女小説『氷点』が朝日新聞1000万円懸賞小説に入選。映画、テレビドラマにもなり、大ベストセラーになったのは、1964年のこと。以後、旭川に在し、『塩狩峠』『道ありき』『泥流地帯』そして『銃口』と、旺盛な作家活動を展開。しかし、この人の一生はまた病苦の一生だったともいえます。パーキンソン病という難病にかかり、座ることも立つことも1人ではできない。その三浦綾子さんを旭川の自宅に訪ねてインタビューは始まりました。
(本文の内容は1994年掲載当時のものです)

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13年にわたる闘病の始まり

――(教師を)退職されたのが昭和21年3月、その3月後の6月に肺結核を発病されていますね。

〈三浦〉
そのころ、2人の青年が私にプロポーズしたんです。1人はグライ ダーの教官で、もう1人は海軍から帰還した青年でした。私はこの2人と同時に婚約したんです。そして、その不誠実な自分自身にも傷ついていました。

そして海軍から復員した青年から結納が届いたその日に、私は貧血で気を失ったんです。これがそれから13年にわたる結核療養の始まりでした。

――虚無感と絶望感が先生を病に追いやったのかもしれませんね。

〈三浦〉
ええ、そういえるかもしれません。

――それにきても13年というのは長い年月ですね。

〈三浦〉
長いですねぇ。24歳で発病して37歳までですからね。

いまは試練を宝玉と思う

――しかし、そういう人間の弱さ、 悲しさ、絶望を知った人ほど、ほんとうの人生の深い喜びを知るのではないでしょうか。

〈三浦〉
そのとおりだと思います。自分が絶望を克服した喜びを知らなかったら、他の人の絶望というものもわかりませんから。

私は長い病気の間、この世に病気がなければよいと思った。自分の人生にこんなに病み続ける日が来ようとは、 と嘆いたこともあった。

でも、いまは、その受けた試練は、宝玉のようなものだと感じています。

もしもいままで、 ただの一度も試練に遭わず、つまり愛する人との死別にも生別にも遭わず、 病むことも知らず、思いのままになる人生であったとしたら、私は涙というものを知らない人間になったと思います。

泣く者とともに泣くことはもちろんのこと、喜ぶ者とともに喜ぶ優しさも持ち得なかったに違いありません。

神は無駄なことはなさらないお方だと思いますね。神の与えたまう試練には、 それなりの深い意味があるのだと、いまは思っています。


(本記事は月刊『致知』1994年12月号 特集「人間の悲しさ」より記事の一部を抜粋・編集したものです)

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◇三浦綾子(みうら・あやこ)
大正11年北海道旭川市生まれ。旭川市立高女卒業後、小学校の教員を7年勤める。退職後、肺結核のため、13年の療養生活を送る。昭和39年、『氷点』が朝日新聞1千万円懸賞小説に入選、作家生活に入る。夫・光世氏の支えのもとにパーキンソン病と闘いながら旺盛な作家活動を展開。篤信のキリスト教徒。

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