「きつい時こそ前に出る」——プロボクサー・坂本博之が交わした子供たちとの約束

真っ向勝負のファイトスタイルで、数多くの名勝負を繰り広げてきた元プロボクサーの坂本博之さん。世界のベルトには届かなかったものの、その勇姿は多くの人々の心に焼き付いています。坂本さんとボクシングの出会い、児童養護施設の子供たちとの日々を振り返っていただきました。
(対談のお相手は、メキシコオリンピック男子マラソン銀メダリストの君原健二さんです。)

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きつい時こそ一歩前に出る

<君原>
ボクシングとの出合いは、どのようなものでしたか。

<坂本>
施設では128人の子供たちが食堂に集まって一つのテレビを見るのですが、小学3年の時にたまたまボクシングをやっていたんです。

僕はボクシングが好きだったわけではありません。

きらびやかなガウンを背負ってチャンピオンベルトを巻いて大歓声の中、花道を通っていく姿に、単純に「ボクサーってかっこいいな。僕もこんなふうに大歓声を浴びてみたいな」と思いました。

でも、ボクシングジムに行くにも月謝が必要です。

当然そんな余裕はありません。

じゃあ諦めたかといったら諦あきらめませんでした。

「スポーツ選手になるにはスタミナをつけなくてはいけない」と思って、朝早く起きてグラウンドを走るようになりました。

あと腕立て伏せをしたり、袋に石を詰めて鉄アレイみたいにして筋肉を鍛えたり、高校時代まではジムに行けない代わりにそんな鍛錬を重ねてきたんです。

先ほど行動一つで夢は追いかけられる、これは皆平等だと話しましたが、それは僕自身の実感なんですね。

結局、僕たち兄弟は小学生の頃、施設を出て母親と共に上京します。

本格的にジムに通い始めたのは高校を卒業してすぐの頃で、20歳でプロデビューを果たしました。

そこから19連勝し少しずつ注目を集めるようにはなりましたが、僕の中でどうしても拭ぬぐいきれないものがありました。

福岡県人の君原さんには大変失礼ですが、やはり故郷での思い出なんです。

<君原>
いや、それは無理もないことだと思います。

<坂本>
僕は福岡が大嫌いでした。

あの大人たちと同じ空気は二度と吸いたくないと思っていました。

しかし、日本チャンピオンが目前に迫ってきた時、ふとこう思ったんですね。

「俺が夢を見続けるきっかけを与えてくれたのは、和白青松園だ。この施設がなかったらいまの俺はない」と。

それで「施設はまだあるのだろうか。子供たちはいるのかな」という本当に軽い気持ちで密ひそかに訪ねてみることにしました。

そうしたら庭で遊んでいた子供たちが鋭い目つきで僕を睨にらむんです。

職員以外の大人を知らないんですね。

「俺も前、ここにおったんよ。2階の菊部屋で生活していた」と話すと親近感が湧いたのか、皆が集まってきて、当時の生活などいろいろなことを聞いてきました。

「いまはプロボクサーなんだ」と話したら「手を見せて」「おなか触らせて」とちょっとした人気者になって、最後に「チャンピオンになったら、また帰ってくるけん」と言って別れたんです。

その10か月後の1993年12月、僕は22歳で日本ライト級チャンピオンになったのですが、その時は堂々と施設の玄関から入って、園長先生にそのことを報告しました。

子供たちも僕のことを覚えてくれていてチャンピオンベルトの周りはたちまち人だかりができました。

その時、僕は皆に「このベルトを僕は世界のベルトに変える」と約束したんです。

<君原>
その頃はどういう心構えで試合や練習に臨まれていたのですか。

<坂本>
君原さんがおっしゃったハングリー精神にも繋がることですが、僕は自分自身との約束として、いつもこう言い聞かせてきました。

「いいか、坂本。おまえ、このリングの上で敗北を味わったら、あの惨みじめな生活に戻るよ。周囲からの暴力、ご飯も食べられない。あの時代に逆戻りしてしまう。戻りたくなかったら勝ち続けろ。勝ち続ける以外に道はない」

でも実際には世界は広いです。

20戦目にして初めての敗北を味わいました。

だけど、惨めな生活には戻りませんでした。

その時、僕は自分が育った和白青松園の子供たちと文通を続けていたんです。

子供たちからは「兄ちゃん、世界チャンピオンになると言ったやんか。頑張れ」「きつい時、辛つらい時こそ前に出て」という熱い手紙が何通も届きました。

これらの言葉はすべて僕が子供たちに言ってきたことだったんです。

自分が止まってしまったら大人として先輩として申し訳ないと、そこから再び走り始めました。

「きつい時こそ前に出るんだ。一歩がきつかったら半歩でもいい。それが無理なら摺すり足でもいい。それもできないと思ったらそこでじっと踏ん張って生きるんだ」。

子供たちに言っていたその言葉を僕は自分自身に言い聞かせていました。


(本記事は月刊『致知』2020年3 月号特集「意志あるところ道はひらく」より一部抜粋したものです)

◉『致知』2020年3 月号に、坂本博之さんが登場!! メキシコ五輪銀メダリストの君原健二氏と、栄冠を手にするまでの辛い幼少期に始まる様々な人生の山坂を超えていく歩みを振り返っていただきました。

本記事の全文は〈致知電子版〉でお読みいただけます!

◇君原健二(きみはら・けんじ)
昭和16年福岡県生まれ。東京、メキシコ、ミュンヘンと五輪3大会連続でマラソン競技に出場し、メキシコでは銀メダルを獲得。平成3年新日本製鐵退社後は九州女子短期大学教授などを歴任。競技者として35回、市民ランナーとしては39回、通算74回のフルマラソンをすべて完走。2020年3月には東京オリンピックの聖火ランナーとして福島を走る。

◇坂本博之(さかもと・ひろゆき)
昭和45年福岡県生まれ。児童養護施設で育ち20歳でプロデビュー。全日本新人王・日本ライト級チャンピオン、東洋太平洋ライト級チャンピオンを獲得。平成19年に現役を引退。現在は自身が会長を務めるSRSボクシングジムで後進の育成に務めるとともに、「こころの青空基金」を設立するなど養護施設の支援を続ける。

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