2024年08月06日
◎各界一流プロフェッショナルの体験談を多数掲載、定期購読者数No.1(約11万8,000人)の総合月刊誌『致知』。人間力を高め、学び続ける習慣をお届けします。
昭和20年8月6日、9歳だった平賀佐和子さんは爆心地から2キロのところで被爆しました。平賀さんは、原爆、終戦という日本史上有数の逆境をどのように乗り越えてきたのか。当時の記憶とともに、被爆をこえて掴んだ人生における大切な心持ちについて語っていただきました。
たった3分で手続き完了、1年12冊の『致知』ご購読・詳細はこちら。
※動機詳細は「③HP・WEB chichiを見て」を選択ください
太陽爆発のような強烈な光
<平賀>
昨日は、一番最近に生まれた14番目の孫の誕生会でした。一族が皆仲よく、何かというと7人の子供たちとその家族が集まって賑やかに過ごしていますが、このなんでもない日常を思う時、私は感慨深い思いがいたします。あの日、私が死んでいたら、子供たちも孫たちも誰一人として存在していないのですから。
あの日とは、昭和20年の8月6日のことです。当時9歳だった私は広島で原爆に遭いました。いま、2㌔圏内で被爆して、同じ場所にいた人たちの中では、唯一の生存者だと思います。
当時、国民学校は兵隊さんの訓練場所になっていて、私たちは地区ごとに民家を借りて勉強をしていました。
私は町内会長さんのお宅を割り当てられていました。立派な門を潜ると石畳があり、その先に大きな藁葺き屋根の家屋がある「お屋敷」でした。庭も広く、あの日の朝も私たちはお庭で「鞠つき」をして遊んでいました。
空襲警報になり、家に戻って防空壕に潜ったものの、すぐに解除となりました。あの頃、頻繁に「空襲警報と解除」が繰り返されていました。
私はまた友達のところに戻ろうとしました。
余談ですが、実はこの時、弟は腸チフスになっていました。後から考えると、結果的にそれが家族の命を救ったといえます。
当時、腸チフスになったら絶対に避病院(伝染病専門病院)に入れるよう定められていましたが、母はこっそり家で手当てをしていたのです(時効と思い、お話しします)。この日、町内の婦人たちは頭巾をかぶり、もんぺ姿で建物疎開へ向かいましたが、母は弟の看病で家に残っていました。行った人たちは皆帰らぬ人となりました。
また下の姉も、「手が足りないから」と母に頼まれて学校を休んでいました。本来、姉は土橋に建物疎開に行く予定でしたが、土橋は被爆直下の爆心地で、姉の級友たちは全滅だったといいます(何らかの理由で欠席した級友は数名生き残ったそうです)。
そんな中で、私はまた鞠つきに行こうとしたのです。山口から戻って久しぶりに友達と会ったことが嬉しかったのでしょう。母は「行きなさんな」と言いましたが、私は言うことを聞かず友達の元へ戻りました。
再び鞠つきが始まりました。しばらくすると、ブウンブウンという独特の音が聞こえ、上空でB29が飛んでくるのを確認しました。じっと見ていると、飛行機がある一点で止まりました。
「あれ、どうしたんかな?」
と見つめていたら、突如ものすごく強烈な光に包み込まれました。
うまく表現できないのですが、まるで太陽が20個も30個も一遍に爆発したような、そんな光です。その太陽爆発の中に自分も入ったかのようで、熱いという感覚もなく、気を失ってしまいました。
どのくらいの時間が経ったのかは分かりません。気がつくと私は町内会長さんの家の中二階にいました。爆風で、庭から家屋の中二階へと吹き飛ばされたのです。
既に藁葺き屋根が燃え始め、崩れた屋根の瓦礫の下敷きになっていました。このままでは火の手に呑まれてしまいます。咄嗟のことでしたが、私は真っ赤に焼けたトタンの上を裸足で転げ落ち、家に向かって走り出しました。
遊びに出る時は白の開襟シャツに黒のもんぺを穿いていましたが、その時点ではもんぺが10㌢程度ぶらさがってついているだけ、シャツは焼け焦げて肌のあちこちに引っついている。頭も、髪も、顔も、露出していた肌はすべて直射で焼けました。
いま考えると、よく家に帰る力があったものだと思いますが、何がなんだか訳も分からず、とにかく狂ったように夢中で走ったことだけは覚えています。
鞠つきをしていた時は雲一つない晴天でしたが、あたりはまるで真夜中になったかのような暗さでした。その闇の中、あちこちで火の手が上がり、燃え盛る炎の間を潜り抜け、私は家を目指しました。
母という存在
<平賀>
幸い私の家のあるブロックに火の手はおよんでいませんでした。
「お母さん、お母さん!」
家に飛び込んでも誰もいません。近くの家に飛び込むと、若い娘さんの声が聞こえ、近くの日原という自動車会社の社長さんの家に避難したのではないかと言います。日原さんのお宅は小高い丘の上に森のような庭のある、大きなお屋敷でした。
「あ、佐和子ちゃんがおった!」
日原さんの家に現れた私を見つけ、母はそう叫びました。
一方、私は家族を見つけて安堵したのか、急に体が熱くて、熱くて堪らなくなりました。「熱い、熱い」と言う私に、姉は日原さんのお宅のポンプで頭から水をかけてくれました。すると、見る見るうちに顔が3倍に膨れ上がったといいます。2人の姉と母が口を揃えてそう言いました。
日原さんの丘からは町内が見下ろせました。さっきまでは焼けていなかった我が家も、大変な熱を受けたことにより、類焼ではなく自然発火で見る見るうちに焼けていきました。最終的には日原さんのお宅も発火し、私たちは別の場所へと避難しました。
母は私と弟を乳母車に乗せ、夕立のように降り出した黒い雨の中、毛布1枚を皆の雨よけにして歩き続けたといいます。
その母は、原爆の爆風でザクロのように弾けた足の裏の肉を自分で押し込み、手拭いで縛って歩いていたのです。戦後の動乱が落ち着き、田舎のお医者さんに看てもらったところ、足の中に無数のガラスの破片が入り込んでいて、神経が切れているといわれました。それでも家族を守るために歩き続けたのです。
母というのは、本当にありがたい存在です。避難生活を送りながら、ずっと私の看病をしてくれました。私は苦しさと火傷の痛さから「痛いよ、痛いよ」「死にたい、殺して」と泣き叫び、疲れ果てて眠りにつく。あまりに悲惨な姿で私が必死に頼むから、「こんなにも苦しんでいるなら、早く楽にしてやろう」と思ったこともあったといいます。しかし、我が子はどんな姿でも生きてほしいと思い直し、以来、ずっと念仏の毎日を送っていました。
終戦の2年後に父が帰ってきた時、「留守中、佐和子に大変な大怪我をさせましてすみませんでした」と、両手をつき畳に頭をつけて謝っていた母の姿は、いまも目に焼きついています。
いまこの環境をよくしていくのが人間
<平賀>
すべては原因があって結果がある。それは病だけでなく、人生の試練や不幸も同じです。自分の試練や逆境は自分に原因があり、人のせいにしているうちは道は拓けないのです。
私が原爆に遭ったのは、アメリカのせいでも、お国が戦争をしていたからでもなく、母の言うことを聞かずに飛び出していった私に原因がある。あるいは、軍人だった父は、戦時中のことですから、敵地で戦ったと思います。そういった目に見えない原因の結果を私が負ったのかもしれません。そう思えば、この程度で済んでラッキーだとさえ思うのです。
ですから、今回「順逆をこえる」というテーマをいただきましたが、この世に順逆はないというのが私の考えです。順境も、逆境も、それは自らが招いた結果でしかありません。
また、陰と陽があって世の中が成り立っているように、順逆があってこそ、一人の人間として味のある人生が送れるのではないかと思います。
私の人生も被爆して苦しんだから、食養との出合いがあり、そのおかげでいまが楽しい。「難有り即ち有難し」、逆境があるから即ち順境があるのだと思います。
(本記事は月刊『致知』2012年4月号 特集「順逆をこえる」から一部抜粋・編集したものです)
◇平賀佐和子(ひらが・さわこ)
昭和11年広島県生まれ。20年8月6日、広島に落とされた原爆で被爆。34年広島大学卒業後、比治山女子高等学校の教諭に(38年まで)。36年結婚。前年の35年にマクロビオティックの提唱者・桜沢如一氏との邂逅を得て、食養運動に参加。60年から平成7年まで進徳女子高等学校教諭。8年から広島市内の美術館を手伝う。著書に『自然食あらかると』(新泉社)がある。