2023年03月20日
日産コンツェルンの創業者・鮎川義介(あゆかわ・よしすけ)。戦前に日産自動車、日立製作所、日本鉱業、日本油脂、日本水産など141社を立ち上げるなどの偉業を成していながら、一般にはあまり名を知られていない人物です。なぜ一代で三井や三菱といった旧財閥を凌駕する規模の企業群を生み出せたのか。近代日本の基盤を築き上げた実業家たちをはじめ、数多の傑物の評伝をものしてきた作家・北康利氏の視点に学びます。 ◎各界一流プロフェッショナルの体験談を多数掲載、定期購読者数No.1(約11万8,000人)の総合月刊誌『致知』。人間力を高め、学び続ける習慣をお届けします。
〈写真=国立国会図書館HP「近代日本人の肖像」〉
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没落した家と体に流れる血
日産グループというと、日産自動車とその子会社群を思い浮かべるかもしれない。だが戦前の新興財閥としての日産グループは、重化学工業を中心とした一大コンツェルンであった。
それを一代にして築き上げたのが鮎川義介である。
一旦つくり上げられた社会秩序に割って入ることは難しい。GHQは鮎川を〝魔術師〟と呼んだというが、満州建国に参加すると、あれよあれよという間に、三井や三菱といった旧財閥を凌駕する勢いを見せた。おそらく敗戦がなければ、我が国における最大の企業グループになっていたのではあるまいか。
既存の価値観にとらわれない先進性と時代の先を読む眼力に加え、たぐいまれなスケールの大きさを併せ持った彼は、エンジニアとしての原点を忘れず、現場の大切さを誰よりもよく理解していた。今回は、そんな日産グループ総帥・鮎川義介の人生に迫ってみたい。
鮎川義介は明治13(1880)年11月6日、長州藩の二百一石取りの上士の家に、7人兄弟姉妹の長男として生まれた。先祖は藩主毛利輝元に〝御家大工〟として仕えており、まさにエンジニアの血が流れていた。
母仲子は長州閥の巨頭にして三井財閥の最高顧問でもあった明治の元勲・井上馨の実姉の長女にあたる。父・弥八は高杉晋作の功山寺義挙に参加するなど熱い血の持ち主ではあったが、幼くして両親を失い、身体が弱く世渡り下手だった。山口県庁吉敷郡出納係や防長新聞会計係など、比較的地味な仕事についていたが、プライドだけは高く、家の中では暴君だった。
父親は維新前の資産を食いつぶしてしまっており、意外にも、若い頃の鮎川は貧乏で苦労している。
閥に頼らず足を使う
若い頃から優秀だった鮎川を井上は何かと目にかけてくれたが、その井上から、「エンジニアになれ」とアドバイスされ、東京帝国大学工科大学機械科(現・東京大学工学部)に入学。井上家に書生として住み込みながら大学に通うことになった。
井上家には天下の名士が次々に訪れるから、彼らの素顔を見ることができる。これが大変な社会勉強になった。
そしてこう決意する。
「オレは絶対に金持ちにならない。だが、大きな仕事をしてやろう。願わくば、人のよく行い得ないで、しかも社会公益に役立つ方面を切り開いていこう」(『私の履歴書』)
明治36(1903)年、東京帝大を4番という優秀な成績で卒業した鮎川は、井上から三井への入社を勧められるが、
「三井には、使ってほしいと思える風格の人がいませんから」
と、傲然と言い放って断っている。彼の自負心がうかがえる。
すでに〝起業家〟としての夢を持ち始めていた彼は、あえて東大工学士という身分を隠し、日給48銭の一介の職工として芝浦製作所(現東芝)に入社する。当時の東京帝大の工学士なら初任給45円で迎えられたものを、日給わずか48銭の仕上げ工になったのだ。
将来、独立して事業を営むためには、現場経験が重要だというのがその動機だった。門閥、学閥といった人間関係から完全に離れることはできないが、社会人としての最初の一歩を、まずは自分の力で歩み出してみようと彼は考えたのだ。
「閥をつくるのは人情で、決して罪悪視すべきではないが、同時に、閥は人間の能力の低下を招致し、事業発展にブレーキをかける」(『思想の科学』座談会)
それだけではない。同志を募って日曜日ごとに手弁当を提げ、東京周辺の工場を見学して歩いた。金がないから徒歩である。他の者は皆脱落していったが、彼は最後まで続け、2年間かけて80社もの会社を回った。
その結果、機械工業の基礎素材である鋼管や可鍛鋳鉄(熱処理により延性を与えた鋳鉄)などの製造技術が未発達であることが、産業発展のネックになっていると考えた。それは高等教育を受けたものが、こうした地味な分野に進もうとしないためだと分析している。
そこで彼は、アメリカに渡ってそれらの製造技術を実地に習得しようと決意。芝浦製作所を退社し、明治38(1905)年渡米。鮎川25歳の時のことであった。
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◉『致知』2023年4月号にて、義娘・鮎川雅子さんに鮎川義介が生きた〝人生の四季〟について紐解いていただきました。
(本記事は月刊『致知』2012年1月号 北康利氏の連載「日本を創った男たち」より一部を抜粋・編集したものです)
◇鮎川義介
明治13(1880)年11月6日山口県氷川郡大内村(現・山口市)生まれ。明治36(1903)年東京帝国大学工科大学機械科を卒業。芝浦製作所を経て渡米。可鍛鋳鉄の製造技術を学ぶ。明治43(1910)年戸畑鋳物(現・日立金属)設立を皮切りに数々の事業を手掛ける。昭和12(1937)年満州重工業開発総裁。満州国顧問・貴族院勅撰議員・内閣顧問を兼務。20(1945)年巣鴨拘置所に拘置。27(1952)年中小企業助成会を創設。28(1953)年参議院に当選。34(1959)年二男の選挙違反容疑の責任をとり議員辞職。42(1967)年2月13日死去。