2023年03月08日
幕末の不平等条約を改正、日清戦争を勝利へと導き、近代国家としての日本の礎をつくった稀代の外交官・陸奥宗光。帝国主義が蔓延る過酷な国際情勢の中で、陸奥宗光はいかにして日本の未来を切り拓いていったのでしょうか。陸奥の遠戚であり、その研究家でもある岡崎久彦さんに語っていただきました。
政府の施策を先取り
岩倉の推挙で新政府に入った陸奥はいきなり大きな障壁にぶつかることになった。薩長の派閥である。近代国家の設立を目指す廃藩置県の要望書を出すものの、時期尚早、危険思想と目されて一蹴されてしまう。藩閥はいかんともしがたいと悟った陸奥は、ついに官を辞して故郷の紀州に帰るのである。
吉宗以来の将軍を生み出した紀州徳川家は、御三家の中で最も有力だった。鳥羽伏見の戦いの後も、敗れた幕府軍の兵士たちを受け入れ、汽船で江戸に帰すまで面倒を見たので、尊皇派の覚えはすこぶる悪かった。
帰郷した陸奥はこの55万石の大藩を改革して朝廷側を味方につけることができれば、薩長藩閥政府に大きな利益になると主張して岩倉の説得に成功、改革の全権を担った。津田出という学者とともに兵制改革を進め、四民平等の徴兵制度を敷いて、紀州藩にプロシアをモデルにした一大武装独立王国を築くのである。精鋭の数は実に2万人、薩長を凌駕する数だった。
これが新政府や各藩を慌てさせないはずがない。明治3(1870)年には兵部省が陸奥を真似て全国の兵制を統一する布告を出し、翌年には廃藩置県が敷かれる。結果的に陸奥が心血を注いだ紀州の軍隊は解体の憂き目に遭うのだが、陸奥の実験が新政府の決断を促したことを思えば、陸奥なしに新政府の一連の改革はなし得なかったと言っても過言ではない。
その後、一官僚として新政府に戻った陸奥を待っていたのは、以前と同じ藩閥による差別だった。同僚だった伊藤博文や大隈重信は閣僚に出世するのに、陸奥は局長心得に甘んじざるを得なかったのも、執拗な藩閥人事のためである。
明治10(1877)年、西南戦争が勃発すると、海援隊以来付き合いが深い土佐の指導者たちが次々に挙兵、陸奥もこれに荷担した。薩摩の力を削ぎ、藩閥政府を倒そうと画策したのである。
それはすぐに新政府の知るところとなった。陸奥は逮捕され、東北の監獄に4年半収監されてしまう。しかし、この程度で挫ける陸奥ではない。吉田松陰よろしく獄舎を学び舎に換え、猛烈な勉強ぶりを発揮するのである。難解なことで知られるイギリスの法学者ジェレミ・ベンサムの著書を翻訳したのもこの時である。
明治14(1881)年、陸奥が獄中から夫人に寄せた書簡に次の一節がある。これを読むと、その頃の陸奥の姿が分かる。
「一昨年来は、毎朝八時ごろより、夜は12時まで、つとめて書物などをけみし、1日もおこたることなし。……大いにおもしろく、たのしく、春の日のなほみじかく、ひとりねの夜のながきをおぼえず、日をおくりかねるなど申すことは、さらにこれなく候」
春の日は長い、独り寝の夜は長い、というのは古典の慣用句である。この何気ない一文には陸奥の勉強態度ばかりでなく、その背後にある古典の素養が読み取れて興味は尽きることがない。
陸奥の決断力
ここで陸奥に大きな影響を与えたベンサムの思想などについて簡単に見ておこう。
ベンサムの特徴は法という概念をその根本にまで遡って考えることにある。例えば、法律は人間が人間を罰するわけだから、何を基準として罰するかは極めて難しい。そこでベンサムは刑罰を加えることで生ずる害よりも、刑罰を加えることで万民が均霑する益のほうが大きければよいと考える。こういう極めて理論的なベンサムの考えは功利主義と呼ばれる。
物事を根本的に考えるという意味では、江戸時代の儒者・荻生徂徠もそうだ。徂徠は「性」「理」という精緻な朱子学の理論に疑問を持ち、『論語』などの原典に遡ることで孔子など先哲の本来の意図を探ろうと試みた。そして、古典にはもともと朱子学のような難しい理論は存在せず、国を治めるための実践の学であるという新しい考えを打ち出している。
この徂徠の政治学はベンサムの思想と相まって、陸奥の理論的、功利主義的な思想形成に大きな役割を果たすのである。
功利主義をベースとした陸奥の情勢判断力は常に冷徹である。明治27(1894)年に朝鮮半島で起きた東学の乱(朝鮮政府に対する農民の大規模な反乱)に際して陸奥のとった行動を見るとそれがよく分かる。
その頃、朝鮮は清国の属国だった。そして清国は圧倒的な軍事力を背景に朝鮮半島で起きる事件にことごとく干渉を続けていた。東学の乱が起きた時も清は朝鮮政府の鎮圧要請を受けてただちに出兵を決定している。
では陸奥はどうしたのか。朝鮮の大使から朝鮮政府が清に出兵を要請したという情報が届くが早いか、すぐに閣議を開いて7000名の派兵を決めるのである。清兵は天津から船に乗れば1日で朝鮮に着く。だが日本兵は広島の宇品港から瀬戸内海を通って仁川に行くのに何日もかかる。事は一刻を要する。もたもたしている時間などないと判断したのだ。
日本がたちまち多くの兵隊を送り込んだことは清には想定外だった。そこで清が出してきたのが鎮圧後の速やかな同時撤兵の案である。これに対して陸奥は「朝鮮の内政改革をしない以上、何度でもこういう問題は起きる。内政改革が終われば撤兵しよう」と断固突っぱねるのである。
清国があくまでも朝鮮は属国という立場を崩さなかったのに対して、陸奥は回想録である『蹇蹇録』で「日本は当初より朝鮮を以て一個の独立国と認め、従来清韓両国の間に存在せし曖昧なる宗属の関係を断絶せしめんとし、……」と述べている。
その頃の清国は帝国主義を取りつつもフランスとの戦いに敗れて国力が低下し、欧米列強はいまにもシナ大陸に進出する勢いだった。それ以上に南下政策をとり続けるロシアの存在は脅威だった。朝鮮を清国支配から脱するようにさせないと、日本だけが独立していても安全は保てない。かくて日清両国の対立は深まり、同年戦争の火蓋が切られるのである。結果は日本の圧勝に終わった。
もし、陸奥が清の言葉どおり朝鮮半島から撤退していたら、朝鮮は属国のままで列強やロシアの餌食となったことは間違いない。日本の軍事力では到底その時点でのロシア艦隊には太刀打ちできなかっただろう。
このように物事の先の先まで読めて、こうと一度決めたことは断固として貫く。これが陸奥の姿勢である。
それに関して1つ付言しておくと時の首相・伊藤博文の存在も大きかった。
伊藤は陸奥が出してきた政策の9割に「よし」とゴーサインを出している。それだけに伊藤が「待て」と言った場合、頑固な陸奥も再度案を練り直したという。こういう絶妙ともいえる二人の呼吸が、綱渡り的な世界情勢を見事に乗り切らせたのである。
明治27(1894)年、アジアにおけるロシアの勢力拡大を懸念するイギリスとの間で日英通商航海条約に調印し、幕末以来の懸案だった不平等条約を改正したことも、忘れてはならない陸奥の功績である。領事裁判権(治外法権)は撤廃され、関税自主権を回復した。それ以降、アメリカやドイツ、イタリア、フランスとの条約も次々に改正していった。
ついでながら述べておくと、一般に「治外法権は陸奥が撤廃し、不平等関税は小村寿太郎が回復した」と思われているが、それは正しくない。たまたま実現するのが明治44(1911)年、小村の時代だったというだけで、そのいずれもが陸奥の手によって合意されたものである。
(本記事は月刊『致知』2013年4月号「渾身満力」から一部抜粋・編集したものです。各界一流の方々のご体験談や珠玉の名言を多数紹介。あなたの人生、経営・仕事の糧になる教え、ヒントが見つかる月刊『致知』の詳細・購読はこちら)
◇岡崎久彦(おかざき・ひさひこ)
昭和5年中国大連生まれ。27年東京大学法学部在学中に外交官試験に合格。外務省入省。調査企画部長などを経て59年駐サウジアラビア大使、63年駐タイ大使。平成4年外務省退官。現在NPO法人岡崎研究所理事長。著書に『明治の教訓・日本の気骨 明治維新人物学』(致知出版社)『陸奥宗光』(PHP研究所)『明治の外交力』(海竜社)『隣の国で考えたこと』(日本経済新聞社)など多数。平成26年死去。
◇陸奥宗光(むつ・むねみつ)
天保15(1844)年~明治30(1897)年。和歌山出身。幕末期は海援隊に参加。維新後は外国事務局御用掛、兵庫・神奈川県等知事、大蔵省租税頭、元老院議官を歴任。西南戦争に関与し約5年間入獄。出獄後欧米を歴訪し、外務省入省。21年駐米全権公使に就任。23年第1回衆院選で当選。農商務相、外相を歴任。27年日英通商航海条約に調印し、領事裁判権の回復を実現した。