「一言で国を滅ぼす言葉」がある。悲劇の幕臣・小栗上野介に見る、類まれな先見性

幕末混乱期の最中、類まれな先見性と洞察力によって、日本の近代化を推し進めた一人の人物がいました。幕臣、小栗上野介(おぐり・こうずけのすけ)です。その功績は明治維新を境にして、語られることはなくなりましたが、それはなぜか――。長年、小栗上野介の顕彰活動を続ける東善寺住職・村上泰賢氏に、維新の立役者の偉容を明らかにしていただきました。

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小栗上野介の先見性

〈村上〉
日本で初めて株式会社を立ち上げたのも小栗上野介だった。遣米使節団の一員として、大西洋側に向かう途中で乗車したパナマ鉄道にヒントを得てのことだった。

小栗上野介はアメリカ側に対して、パナマ鉄道の建設費をどのように工面したのかと質問をしていたようで、そのお金は政府からではなく、国内の裕福な商人から集めたもので、運営費以上に利益が出たら商人たちに還元されるという説明にピンとくるものがあったのだろう。

日本でもこのコムペニー(カンパニー)の仕組みを取り入れればインフラ整備ができる。そう考えた小栗上野介が最初に提案したのは、兵庫港の開港にあたって大阪商人二十名ほどに出資をさせて、兵庫商社という貿易会社を立ち上げるというものだった。

これは日本の商人が個々バラバラに外国のコムペニーと取り引きを行っていては、いずれは大資本を頼みにした外国商人に利益を持っていかれ、ひいては国全体の損益にもかかわる懸念があったからにほかならない。残念ながら兵庫商社は明治維新で解散を余儀なくされたが、日本に株式会社の先鞭をつけた意義は大きい。

また、兵庫商社以外にも株式会社の手法で建てられたものとして、西洋式の築地ホテルがある。もともとは開国に伴って外国人公使から西洋式の宿泊施設建築を求められたことによるが、当時の幕府にはもはや金銭的な余裕は一切ない。そこで小栗上野介の構想で、築地の土地をただで貸すから、民間資本を集めてホテルを建設する者はいないかと呼び掛けたのである。

その時に手を挙げたのが、清水建設2代目の清水喜助だった。慶応3年に着工し、翌年8月に完成した築地ホテルは、なまこ壁でおおわれた2階建てで、部屋数は102室、しかも暖房、シャワー、水洗トイレつきとあって、一躍東京の名所となったほど人気を博したという。しかし、完成後僅か3年半で銀座の大火による類焼で焼けてしまったのは、残念としかいいようがない。

語り継がれなかった偉人の至言

しかし、小栗上野介にも時代の流れを変えることはできなかった。迫りくる明治新政府軍を前に小栗上野介が辿った末路は実に悲惨なものであった。

江戸無血開城前に罷免された小栗上野介は江戸を引き払うと、知行地の上州権田村(現・高崎市倉渕町)への移住を決めた。しかし、その僅か2か月後には、明治新政府軍の手によって、何の罪もないままに家臣とともに小栗上野介は斬首されてしまう。

日本の近代化に努めた人物のあまりにあっけない最後だった。その後、小栗上野介やその家臣の家財道具一式は没収され、すぐに競売にふして売り払われると、軍資金として持ち去られている。

時は下る。日露戦争で日本がロシアに辛勝した後のことである。連合艦隊司令長官として日本海海戦を指揮した東郷平八郎は、小栗家の遺族を自宅に招くと、次のように感謝の気持ちを述べたという。

「日本海海戦において完全な勝利を収めることができたのは、軍事上の勝因の第一に、小栗上野介殿が横須賀造船所を建設しておいてくれたことが、どれほど役立ったか計り知れません」

というのも、海戦中に戦果を挙げた中小の駆逐艦や砲艦、魚雷艇などの多くは横須賀や呉の造船所でつくられたものであり、また、艦船の修理点検を国内の造船所で迅速に行えたことも、大きく勝利に貢献したからに他ならない。

アメリカから帰国した小栗上野介が幕僚たちに横須賀造船所の必要性について必死に訴え続けていた折、ある幕臣がこんなことを口にしたという。

「幕府の運命もなかなか難しい。これから大金をかけて造船所を造っても、でき上がる頃には幕府がどうなっているか分からないではないか」

それに対して、小栗上野介は次のように述べた。

「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない。自分は幕臣だから幕府の為に尽くす身分だけれども、それは結局日本の為であって幕府のしたことが長く日本の為となって、徳川のした仕事が成功したのだと後に言われれば、徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか」

小栗上野介には先見性や洞察力の高さを感じるが、その根底にはこの言葉からも分かるように、強烈な当事者意識を感じ取ることができる。

「一言で国を滅ぼす言葉は『どうにかなろう』の一言なり。江戸幕府が滅亡したるは、この一言なり」

という言葉もまた、小栗上野介の当事者意識を端的に表しているように思われる。しかし、残念ながら小栗上野介が願った徳川家の名誉は、明治新政府によってなきものとされ、語り継がれることはなかった。


(本記事は月刊『致知』2017年8月号 特集「維新する」より一部抜粋したものです)

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◇村上 泰賢(むらかみ・たいけん)
昭和16年群馬県生まれ。駒澤大学文学部卒業。小栗上野介顕彰会理事。編著に『小栗上野介のすべて』(新人物往来社)、著書に『小栗上野介』(平凡社新書)がある。

◇小栗 上野介(おぐり・こうずけのすけ)
文政10(1827)年~慶応4(1868)年。徳川家の旗本小栗家に生まれる。32歳で日米修好通商条約批准の遣米使節として渡米、世界一周後に帰国。8年にわたって幕政を支え、その間に外国、勘定、江戸町、歩兵、陸軍、軍艦、海軍各奉行を歴任。慶応4年閏4月6日、明治新政府軍の手で斬首される。享年41。

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