孤児たちに「お父さん」と呼ばれた男。児童福祉のパイオニア・石井十次の横顔

 〔記事中写真提供=社会福祉法人 石井記念友愛社〕
日本で一番初めに孤児院が開かれたのはいつでしょうか? それは1887(明治20)年、いまから135年も前のことです。施設の名は「孤児教育会(後に岡山孤児院と改称)」。創設者は宮崎県(日向国)下級藩士の家に生まれた石井十次その人です。

なぜ、遠く九州に生を享けた武士の子が、社会から零れ落ちた孤児たちと出逢い、孤児院をつくったのか……十次の曽孫であり、その遺志を受け継ぐ社会福祉法人 石井記念友愛社の理事長・児嶋草次郎さんのお話をもとに迫ります。
 ※本記事は月刊『致知』2022年9月号「天は父なり 児童福祉のパイオニア 石井十次の歩いた道」の取材手記です

石井十次を育てた愛の力

急激な近代化が進む明治時代、現在の岡山市を拠点に、1891年の濃尾大地震や1906年の東北大凶作全国の孤児を受け入れ、収容人数1,200名に及ぶ「孤児村」を形成した岡山孤児院。

創設者の石井十次は1865(慶応元)年、高鍋藩(現在の宮崎県)に生まれました。父は高鍋藩士の石井萬吉、母は乃婦子(のぶこ)。

 〔石井十次 Ⓒ石井記念友愛社〕

萬吉は普段百姓をして暮らしていましたが、西南戦争が勃発すると西郷軍に与して闘い、生還した後も当時のことを十次に語って聞かせる血気盛んな父でした。一方の乃婦子も心優しい女性で、隣近所に貧しい子供がいれば我が子のように預かり、家で面倒を見るような母でした。

そんな二人の背中を見て十次の心が育てられていったことは疑いないところでしょう。石井記念友愛社の児嶋草次郎理事長によれば、そんな両親の生き方は、高鍋藩という藩に広く浸透していた「精神文化」の発露だった、といいます。

 〔石井記念友愛社理事長 児嶋草次郎さん〕

十次が誕生する百数十年前、代々藩主を務める秋月家七代目・秋月種茂公は、慣習に囚われない施策を次々と実施し、財政再建、藩の発展に尽くしました。

種茂公は米沢藩(山形)を建て直した上杉鷹山の実兄でしたが、貧しく子供を育てられない農家のために、一家の3人目以降の子供には1日につき米2合もしくは麦3合を支給するなど、世界初とも言われる児童福祉制度を施行。特に教育に力を入れ、藩士だけでなく町民や農民も入学でき、人倫を重んずる独自の教育を旨とする藩校「明倫堂」を開校します。

十次も物心つく前から高鍋の精神文化に触れ、6歳から2年間この明倫堂の教育文化に浸ったことが、両親の教育と相俟って人格の根を養っていったのでしょう。

人の心を立ち直らせる三原則

 〔1,200人の孤児を収容した当時の岡山孤児院の様子 Ⓒ石井記念友愛社〕

社会福祉という言葉もなかった時代、愛と情熱で生涯に3,000人もの孤児を救った十次。児嶋草次郎理事長は、前例のない一大事業を成し遂げた十次の根本にあったものとして、あるお話をされました。

「挫折から立ち直るための三原則」

何らかの理由で心が折れ、自信を失った子どもたちが、再び生きる力を取り戻し、社会に出ていくために、大切な三つのことがあるというのです。

施設の中で他の子どもたち同様に育てられ、20代半ばより石井記念友愛社で指導員となり、現在73歳を迎えてなお現場で奔走する理事長の言葉には、体験から生まれ出る重みがありました。

十次は幼少期から10代にかけ、血気盛んな父の影響もあってか様々な失敗や挫折を経験しています。14歳で海軍士官を目指して東京の攻玉社に入学したり、その後西郷隆盛の吉野村開墾の話に感銘して仲間と荒地の開墾をしたりしたほか、小学校教師や警察署の書記の仕事を転々とし、道が定まらず壁にぶつかってはくすぶっていることも多かったそうです。

そんな中にあって、やはり両親の教育が、心を立ち直らせていきました。

一、 親の愛情
 ~父そして母の無償の愛情が十次を包んでいた~
 児嶋理事長いわく、施設には親からの愛情に恵まれなかった子どもたちが多くやってくる。虐待を受けた過去を持っている場合もあり単純には行かない、なかなか難しいことだけども、職員が忍耐強く、親に代わって愛情で包み込んでいく。子どもとじっくり向き合うことで少しずつその心が解れていく。

二、 志教育
 ~自負心の持てなくなった子どもに「志」を植える~
 十次の父は、常日頃から「お前は素晴らしい人間なんだ」と心に自信を与えていた。軍人になろうとして失敗した時も、「挫折したくらいでへこむな。がんばれ」というように、常に志を育てることを実践していた。

 石井記念友愛社では、偉業を成した十次の歩みはもちろん、十次が尊敬した西郷隆盛の話をしたり、年1回の宿泊旅行で大分県にあった日本最大規模の私塾・咸宜園(かんぎえん)、山口県の松下村塾など志を燃やした人々が生きた史跡を周ったりしているそうです。施設の子供たちはそこに偉人たちが遺した精神文化を感じ、「僕でもやれるんだ」というエネルギー、人生に対するやる気が漲ってくるといいます。

三、 出逢い
 ~素晴らしい人物との出逢いを「準備」していく~
 十次の父は、十次が学んでいた明倫堂の堤長発(つつみながあき)先生が、閉校に際して別の学校(宮崎学校)に移ると知ると、我が子を連れて宮崎へ行き、話をつけて十次をその生徒として迎えてもらうのです。

「ああ、この人は」と思うような素晴らしい人物を、子どもに繋げていく。人生を変えるような出逢いを与えることが大事だということです。

十次は、このような〝教育〟に支えられてその後、コレラや赤痢といった感染症、先駆者ゆえの猛烈な偏見と批判にも耐え、「児童福祉の父」と呼ばれるようになっていきます。

48年の短い生涯を駆け抜けた十次の生き方。それは現代に欠けてしまった、人間にとって大切な精神文化の存在と、それを取り戻すことの大切さを教えてくれます。児嶋理事長の口から語られた挑戦の軌跡は『致知』2022年9月号にて紹介しております。


(本記事は月刊『致知』2022年9月号「天は父なり 児童福祉のパイオニア 石井十次の歩いた道」の取材手記です/文責編集部)

◉本号では歴史に埋もれた先人の一人・石井十次。その遺志を受け継ぎ、宮崎県内で保育園を計10か所、また高齢者のデイサービス、障がい者就労支援事業所など県内に合わせて20余りの施設を運営する石井記念友愛社の児嶋草次郎さんに、その足跡を辿っていただきました!
 記事詳細はこちら致知電子版〉でもお読みいただけます。

◇石井十次(いしい・じゅうじ)
慶応元(1865)年日向国高鍋藩(現在の宮崎県)に生まれる。明治2(1869)年6歳で藩校・明倫堂に学ぶ。15年岡山県甲種医学校へ入学し、キリスト教受洗。20年孤児教育会(岡山孤児院)設立。27年日向国茶臼原の開拓に着手。39年東北大凶作による孤児救済に乗り出し、収容児は1,200名に上る。大正3(1914)年腎臓病悪化のため逝去。

◇児嶋草次郎(こじま・そうじろう)
昭和24(1949)年宮崎県生まれ。石井十次の孫・虓一郎の次男。48年明治学院大学卒業後、社会福祉法人石井記念友愛園で児童指導員となる。同園長を経て、平成3(1991)年より社会福祉法人石井記念友愛社(宮崎県)理事長。

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