2021年12月19日
吉田松陰は、地元萩の野山獄に投獄されても、ただじっとしている人物ではありませんでした。「自分がいま身を置いている状況を最大限に改革する」という信念のもと、環境改善の一環として受刑者を相手に『孟子』の講義を始めた他、積極的な釈放運動も行っていました。富永有隣(とみなが ゆうりん)もまた、松陰の釈放運動によって獄から出られた人物の一人でした。
前回はこちら ⇒ 吉田松陰の教授録〈1〉松陰のメモ帳「飛耳長目」に書かれていたこと
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まず一番強い相手から心を変える
実際に罪を犯した者に対する釈放運動は、それなりに藩の方でも考えたが、しかし家族から願い出て入牢させた者はなかなか簡単にはいかなかった。
松陰の考え方が分かっても、家族の方が承知しない。
「冗談ではありません。あんな人間がもう一度家に戻ってきたら、せっかく納まった家の中の空気がまたメチャメチャになります」
といって反対した。その一人に、富永有隣(とみなが ゆうりん)という武士がいた。
有隣は、周防吉敷郡の生まれだったが、家職は代々藩のお膳部役だった。有隣は秀才で、13歳の時にはすでに藩主に『大学』を講義するまでの学力を持っていた。
ところが性格が非常に狽介(けんかい)なのでまわりの人間に嫌われた。とくに家族に嫌われた。
「なぜおまえは自分だけが頭が良く、優れた人間だと思っているのだ? もう少しつつましやかに生きないと、みんなに嫌われて生きてはいけないぞ」
よくそう叱った。しかし有隣は、そんな家族の忠告にも耳を傾けなかった。唯我独尊の態度をとりつづけた。我慢できなくなった家族は、藩庁に頼んで有隣を野山獄にぶち込んでしまった。
松陰が最初に目をつけたのはこの有隣である。
なぜ松陰が目をつけたかといえば、入牢しても有隣はまわりの人間をバカにして、差入れの金を全部酒に換えて一人で飲みまくっもうろうていた。そして、朦朧とした酔眼で周囲をみまわしながら、
「おまえたちはバカだ」
とうそぶいていた。
松陰は、
「まず、一番手強い相手から心を変えさせよう」
と思った。そこで有隣に中国の本を一冊送って、
「あなたならこの本に対するご意見が承われると思います。
一度、あなたのお考えをおきかせください」
という手紙を添えた。有隣はびっくりした。
しかし、文通をはじめてみると松陰の純粋無垢な魂がヒシヒシと有隣の胸に響きはじめた。それまでに人間不信でこり固まっていた有隣が、はじめて人間を信ずることを知ったのである。
松陰は喜んだ。そこで夢中になって、
「富永さんを釈放してください」
という運動をはじめた。のちにこの運動は実り、有隣は釈放される。
魂を受け継ぐとは
しかし家族は、
「引き取れません。あなたが釈放運動をしたのだから、あなたが責任を持ってください」
と松陰に責任を押しつけた。そこで松陰は富永有隣をたまたま開いた松下村塾に招き、自分の代講にした。
有隣は感動した。そして学問に励み、その成果を門人たちに伝えた。門人たちも有隣の講義を喜んだ。うわさをきいた家族たちも、
「あの有隣がそんなに立ち直ったのか?」
と驚きの目をみはった。しかしその後松陰が事に関心を持ち過ぎ、幕府の老中間部詮勝(まなべ あきかつ)をテロ行為によって抹殺しようと企(くわだ)てた時、有隣は恐れをなして松下村塾から脱走した。松陰も門人も、
「富永有隣は、臆病風に吹かれて塾から逃げた」
と軽蔑した。有隣の松下村塾脱走の真因はどこにあったのか分からない。その後の有隣は周防に戻って塾を営み、幕府の第二次長州征伐の時には軍を率いて戦った。
しかし、維新後成立した明治新政府の政策には不満を持ち、いわゆる諸隊騒動の指導者になった。
明治10年に捕えられ東京の石川島の監獄に入れられたが、7年後特赦を受けて出獄した。その後は、昔日の面影はなく相変らず不平の念を持ち続けてこの世を去っていったという。
この富永有隣をモデルにして小説にしたのが、国木田独歩の『富岡先生』である。しかし有隣を知る人のみるところでは、
「富永有隣のその後の生き方は、そのまま吉田松陰の考えを貫いたものだ。その意味では、かれもまた松下村塾出身者としての筋は通し抜いていた」
といわれる。有隣の生涯も、吉田松陰がよくいった「狂」であり、また「猛」の道である。
(本記事は月刊『致知』1994年3月号 連載「新代表的日本人」より一部を抜粋・再編集したものです)
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◇童門冬二(どうもん・ふゆじ)
昭和2年東京生まれ。東京都庁にて広報室長、企画調整局長を歴任後、54年に退職。本格的な作家活動に入る。第43回芥川賞候補。平成11年勲三等瑞宝章を受章。著書は代表作の『小説上杉鷹山』(学陽書房)をはじめ、『人生を励ます太宰治の言葉』『楠木正成』『水戸光圀』(いずれも致知出版社)『歴史の生かし方』『歴史に学ぶ「人たらし」の極意』(共に青春出版社)など多数。
◉童門先生より寄せられた『致知』へのメッセージ◉
『致知』が創刊40周年を迎える。実をいえば私も退職40周年を迎える。退職直後から『致知』に作品を載せていただき現在に及んでいる。私にとっては“感謝”の40年だ。“日本の良心”として、いよいよご発展あらんことを。