元主婦の二代目社長が「町工場の星」と呼ばれるまで──ダイヤ精機・諏訪貴子

32歳の時に突然、実家の町工場・ダイヤ精機の二代目社長を継ぐことになった諏訪貴子さん。バブル崩壊の余波もあって赤字経営が続く中、様々な壁にぶつかりながらも「町工場の星」と称されるほどの業績回復を成し遂げ、その軌跡はのちにNHKでドラマ化もされました。社員とともに幾多の逆境を乗り越えてきた諏訪さんに、中小企業が直面する課題を次々と解決してきた社内改革術について伺います※記事の内容や肩書はインタビュー当時のものです

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二度のリストラを経て社長に就任

〈諏訪〉
大学卒業後は大手の自動車部品メーカーでエンジニアをしていましたが、出産を機に退職。で、その頃、「会社が大変だから手伝ってくれ」と言われて、このダイヤ精機に総務として入社しました。

──大変というと、当時の状況は。

〈諏訪〉
すっごく酷かったですよ。バブル崩壊以後、ずっと赤字が続いていたような状態でした。経営分析した結果、どう考えても仕事量に対して人が多い。

身内ですから会社を守らなければという思いが先に立ち、リストラを父に提案したわけです。そうしたら「だったらおまえが辞めろ」ということで、半年でクビになりました。

──え、クビに!?

〈諏訪〉
はい。その後も同じように「手伝ってくれ」と言われて戻り、再度リストラを進言したら、今度は3か月でクビでした(笑)。

まあ、いまなら父の気持ちも分かるんです。私に「手伝ってほしい」と言ったのは、人員整理をしないで済む方法を考えてほしいということだったと思います。しかし、私も当時は浅はかで大手の考え方をそのまま持ち込んでしまいました。父には社員に対する雇用責任もありますから、リストラするしか道がないなら娘から、と思ったのでしょう。

辞めた後は普通の専業主婦をしていました。父はうちの息子を二代目にすると言っていましたから、そうなるだろうと思っていたんです。ところが、2004年に父が急逝してしまいました。ダイヤ精機の社員たちから社長になってほしいと懇願されたのですが、ちょうど夫の海外赴任が決まって、一家で渡米する直前でしたから、すっごく悩みましたね。

──決断させたものは何でしたか。

〈諏訪〉
それこそ冷凍食品3割引だと買いに行っちゃう主婦が、借金も背負わなければならないし、連帯保証もしなければならない。社員やその家族、協力メーカーさんも含めると、数百人の生活を背負わなければならないので、正直怖かった。

そんな時に1人の女性弁護士に出会いまして、彼女の前でいろんな思いを吐露しました。そうしたら「あなた、いくら財産あるの?」と。「数十万円です」というと「じゃあ怖いものないじゃない。やってダメなら自己破産すれば」と言われて、確かにそうだなと。

命までは取られない。とにかく企業はやめるにしても続けるにしても代表者がいないとダメじゃないですか。私は兄の代わりに生まれた。それが自分の使命、運命と捉えて、うまくいけばラッキー、ダメなら関係者に土下座できる覚悟があればできると思って引き受けることにしました。

──ご家族はどうされたのですか。

〈諏訪〉
主人とはお互い後悔しない道を進もうと話し合い、彼は単身赴任でアメリカに渡り、私はここに残ることにしました。2004年、私が32歳の時のことです。

〝整理整頓〟から始めた社内改革

──家業とはいえ、若くして突然社長に就任された時の心境はいかがでしたか。

〈諏訪〉
いやぁ、もう必死以外の何物でもないですよね。亡くなったのも突然で、何も事業継承していませんでしたから。だから、最初の一年の記憶ってほとんどないんですよ。いつ起きていつ寝たかも覚えていないくらい。そのくらいガムシャラでした。

まず会社のことを誰よりも知っているというくらいにならなければダメだと思い、総務室や経理室にこもって過去30年分の資料を読み込み、経営分析をしました。また、数字で結果を残すことが大事だと考え、何度も進言したリストラを断行して社員数を22名に減らし、さらに社内改革3年計画に着手しました。

昔大手に勤めていた時に上司から「3という数字を効率よく仕事に取り入れなさい」と言われたことを思い出し、間延びすると改革ではなく改善になると思い、3年と打ち出したのです。

──具体的な内容というのは?

〈諏訪〉
最初の1年は意識改革。この厳しい経営状況の中で、いきなり社長が亡くなって娘に交代した。自分たちは生まれ変わらなければならないという意識づけが一番重要だと思いました。

具体的には、まず教育ですよね。朝の挨拶の指導から始まって、「はい、〝整理整頓〟の意味を言ってみて」というところからのスタートです。記者さん、言えます?

──……どこに何があるか分かる状態にするということでしょうか。

〈諏訪〉
「整理」は要るものと要らないものを分けて、要らないものは捨てること。「整頓」は要るものを使いやすく並べることです。意味をしっかり理解することで行動に差が出ます。「はい、いま意味を教えたから、これから現場に行って要らないものにテープを貼って、捨てていきましょう」と。

大手は「教育する・される」ということが当たり前ですが、町工場はそうじゃない。だから製造業の物の考え方やPDCAなどの意味を教えて、実践させて、教育効果を確かめると。それから先代のトップダウン型からボトムアップ型の組織に変更し、基礎固めをしました。

──そういった社内改革や教育に対して、古くからいる社員さんなどはどのような反応でしたか。

〈諏訪〉
やはりリストラを断行した時、翌日は本当に全員が敵に回ったような空気でしたよ。社長就任は彼らに頼まれたことですが、社長の椅子に座ってくれとは言ったけれど、経営してくれとは言っていないわけです。

だから最初の半年は、それこそ「てめぇ、このやろう!」の世界で大ゲンカですよ(笑)。でも、感謝しているのは、ああだこうだと言い合っても、一歩外に出ると私を社長として扱ってくれた。

私も、これは先代の姿から学んだことですが、「3秒ルール」と決めて、どんなに言い合っても3秒後には「きょうは寒いね」と声を掛けて、絶対に引き摺らない。あなたのことを嫌いなのではなく、仕事において厳しいことを言っているのだ、というメリハリをつけることを心掛けてきました。

逃げずに向き合ってきたからこそ、強い絆で結ばれたし、信頼関係が生まれたと思います。いまは互いに笑い話ですが、あの当時は必死でしたね。


(本記事は月刊『致知』2014年6月号 特集「長の一念」より一部を抜粋したものです)

◎2018年1月号 特集「仕事と人生」に諏訪さんがご登場!

人生には3つの坂があるという。上り坂、下り坂、まさか——。ここに人生のまさかを乗り越えてきた二人の女性経営者がいる。ともに創業者である父親を突然亡くし、32歳にして倒産の危機にあった会社を引き継ぎ、見事に再建を果たした。日本電鍍工業社長の伊藤麻美さんとダイヤ精機社長の諏訪貴子さんが語り合う体験的「仕事と人生」論。

《「致知電子版」では全文をお読みいただけます》

◇諏訪貴子(すわ・たかこ)
昭和46年東京都生まれ。平成7年成蹊大学工学部卒業後、大手自動車部品メーカー、ユニシアジェックス(現・日立オートモティブシステムズ)のエンジニアとして2年間勤務。10年ダイヤ精機に入社。16年父の逝去を機に32歳で社長に就任。23年から経済産業省・産業構造審議会の委員を務める。

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