〝心臓外科の世界的権威〟榊原仟(しげる)先生に教わった生き方・働き方

医は仁術なり。この言葉を体現するようにして、これまで幾千人もの小児心臓手術を手掛け、尊い命を救ってきた龍野勝彦さん(タツノ内科・循環器科院長/写真左)と高橋幸宏さん(榊原記念病院副院長/写真右)。お二人の名医は、どのような心構えで日々仕事に向き合ってきたのか。そこに息づく〝榊原イズム〟の源流であり、「心臓外科の世界的権威」と言われる榊原仟(しげる)医師の教えに迫ります。

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「君、それはおもしろい。はやくやりたまえ」

〈高橋〉
大先輩の龍野先生と対談する機会が巡ってくるとは、夢にも思いませんでした。

〈龍野〉
高橋先生とは20年近く榊原記念病院で一緒に仕事をしてきましたし、いまも週に1回会っていますけど、こうして面と向かって語り合うのは初めてですね。

〈高橋〉
はい。きょうは龍野先生のお話を伺うのを、楽しみにやってまいりました。

僕が最初に龍野先生にお目にかかったのは昭和55年、大学最終学年の夏休みです。榊原記念病院を1週間見学させていただき、目から鱗が落ちましたね。夜中でも医師や技師がたくさんいて何か起こるとみんな集まってくる。

加えて、龍野先生は当時外科部長でいらっしゃいましたが、まだ30代後半でしたよね。他の二人の外科部長も同じくらいの年齢で、若い方が現場のトップでしょう。他の病院とは全然違う印象がありました。
それで大学を卒業したらすぐに入りたいと申し上げたんですけど、ペーペーは要らんと(笑)。

そりゃそうですよね。榊原記念病院は日本で初めて心臓手術を行った榊原仟(しげる)先生がつくられた循環器専門の病院で、数多くの手術をやっていましたから、実働部隊しか要らないわけです。熊本の赤十字病院で2年間修業した後、再度応募したところ、よろしいとご許可をいただきました。昭和58年、27歳の時です。

〈龍野〉
高橋先生が学生時代に見学に来た時のことは、よく覚えていますよ。背の高いひょろっとした好男子が来たなと(笑)。

榊原先生の名声が呼び込んだのでしょうけど、全国の様々な大学から榊原で修業したいという申し出がたくさんありました。当時はまだ日本に研修医制度が確立されていなかったものの、私が榊原先生に提案して、独自の研修医制度を全国に先駆けてつくったんです。高橋先生はその3番目に採用させてもらったんですね。

榊原記念病院は昭和52年の11月4日に開院したんですが、2年後の9月に榊原先生が亡くなられてしまい、大きな看板を失った悲しみと共に、がんばらなきゃいけないと意気に燃えるような雰囲気がありました。年間300例近くあった手術のうち、半分ほどは小児専門である私が手掛けていたんです。そこに全国の優秀な若い医師が来て、7~8人の体制になりましたので随分助かりました。

榊原で修業を積んで帰っていった若い医師たちは、後年教授になったり、中には学長になった人もいます。だから、やっぱり自分のキャリアは自分でつくるんだという熱意を持った若者は、将来大成する。そのようなやる気に満ちた方々と一緒に仕事ができて、本当に幸せだったなと思います。

〈高橋〉
働いていて不愉快に思うことが極めて少ない。居心地がいいんですよ。ものすごく忙しくて、家に帰れないような状況だったにも拘らず、不思議なもので辞めたいと思うような嫌なことがありませんでした。

〈龍野〉
その元となっているのは、榊原先生の教えでしょうね。若い人が提案したり、やりたいと言っていることを、上の人は決して邪魔しない。私の著書の題名にもあるように、「君、それはおもしろい。はやくやりたまえ」というのが、榊原先生の口癖でした。その精神を私たち三人の指導医が受け継いでいた。ストレスが少なかったのはおそらくそこじゃないかな。

若い人に限らず、誰でも自分の考えを否定されると、やる気が削がれますよね。上の人は「それはダメだよ」「そんなことは前の人が既にやっている」と言いがちですけど、私たちはそういうことを言わないように努めていたし、実際に言わなかったと思うんです。

そして、常に新しいイノベーションを追求する。現状に満足しないで、少しでも次の新たな発見や発明に繋がる糸口があれば、それを手繰っていく。そういう心掛けで仕事をしていました。

〈高橋〉
いまイノベーションという言葉を使われましたけど、龍野先生は新しいことを数多く手掛けられましたよね。その中には、僕も携わらせていただいた仕事もありますから、本当にありがたいなと思っています。

榊原仟先生が至った悟りの境地

〈龍野〉
榊原先生は昭和54年の9月28日に68歳で亡くなられたのですが、その年のゴールデンウィーク明け、病院に行くと榊原先生の部屋にスタッフが集められました。そこで榊原先生は、「私はいま肺がんが肝臓に転移して余命幾ばくもない。この後どうするかずっと考えてきたし、行く末を心配している。病院は副院長に引き継ぐが、皆さん協力してやってください」と話され、最後にこうおっしゃったんです。「皆さん、がんばってください」って。

私はその言葉を聞いて、体が痺れちゃってね。自分が死ぬ間際にそういうことを言えるか、たぶん言えないです。死にたくないって泣き叫んでしまうかもしれません。少なくとも、その状況で人を励ます言葉を掛けるっていうのはなかなかできることじゃない。

〈高橋〉
確かにそうですね。

〈龍野〉
いま振り返ってみますと、榊原先生は一種の悟りのような境地にいたのかなと思います。悟りが何かっていうと私には分かりませんけど、あらゆることを受け入れて許すとか、みんなに心配をかけないで幸せを与えるとか。今回のテーマにもある「愛」というか、自分を無にしてでも相手を思いやる、自分の命よりも周囲の人を大事にする。そういう境地にいたのではないだろうかと。

十字架に張りつけにされたキリストが、自分が犠牲になることですべての人の罪を贖うと『聖書』にはあるけれど、そんなことはできないし、信じられないと、榊原先生は生前おっしゃっていたんです。ただ、榊原先生ご自身はそうされたんじゃないかなと思わずにはいられません。

榊原先生との思い出は尽きませんが、その中で改めて感じるのは優しさや思いやりに溢れ、ご自分の持っているものを惜しげもなく与え、周囲の人たちを幸福にする慈愛に満ちたお人柄だったということです。

〈高橋〉
そういう方だったからこそいまもその教えや精神が残っているのでしょうね。

〈龍野〉
例えば、「救急患者さんは絶対に断らない」。これは榊原先生の一つの信念で、いまも榊原記念病院に受け継がれていますね。関連して、あるお弟子さんが榊原先生から

「電話のそばに眠りなさい。鳴ったら一度で受話器をとりなさい。なぜなら、二度目のベルで電話の向こうの患者さんは息絶えているかもしれないのだから」

と言われたと書いています。

〈高橋〉
この言葉は本当にその通りですよね。私もお風呂に入る時は必ず携帯電話をビニール袋に包んで、横に置いて、鳴ったらすぐにとれるようにしています。電話にワンコールで出る、夜中でも反応してすぐ駆けつける。いまは働き方改革でややこしい時代になりましたけど、こういうことは医師として欠かせない大切な心掛けだと思います。


(本記事は月刊『致知』2021年10月号 特集「天に星 地に花 人に愛」より一部を抜粋・編集したものです)

◉救っても救っても終わることのない心臓外科の道。本記事で紹介された榊原仟医師の魂は、いかに伝承されているのか――龍野さんと高橋さんの対談には、命の現場で掴み取られた仕事論、人生論が詰まっています。

◇龍野勝彦(たつの・かつひこ)
昭和17年東京生まれ。42年千葉大学医学部卒業後、東京女子医科大学日本心臓血圧研究所外科医員。榊原仟氏の門下生となる。52年8月、榊原氏に呼ばれて財団法人日本心臓血圧研究振興会附属榊原記念病院の開設に参画し、同年11月の開設と同時に外科部長となる。平成2年副院長。以後、千葉県立鶴舞病院副院長、千葉県循環器病センターセンター長、同名誉センター長、榊原記念病院特命顧問を歴任。20年タツノ内科・循環器科院長就任。医学博士。著書に『君、それはおもしろい。はやくやりたまえ』(日経BP社)。

◇高橋幸宏(たかはし・ゆきひろ)
昭和31年宮崎県生まれ。56年熊本大学医学部卒業後、心臓外科の世界的権威と呼ばれた榊原仟氏が設立した榊原記念病院への入職を希望するも、新米はいらないと断られ、熊本の赤十字病院で2年間初期研修。58年榊原記念病院に研修医として採用。年間約300例もの心臓血管手術を行い、35年間で7000人以上の子供たちの命を救ってきた。手術成功率は実に98.7%を誇る。平成15年心臓血管外科主任部長、18年副院長就任。医学博士。著書に『7000人の子の命を救った心臓外科医が教える仕事の流儀』(致知出版社)。

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