2021年03月27日
コロナ禍を受け、1年越しでスタートした東京五輪聖火リレー。47都道府県を回るトーチの出発地は福島県です。ゆかりある様々なランナーが控える中、特別な思いを抱いて走らんとする人がいます。メキシコ五輪男子マラソン銀メダリスト・君原健二さんです。君原さんが走るのは、盟友・円谷幸吉さんの出身地、須賀川市。当時のエピソードを交え、メキシコ五輪での勝負の瞬間を振り返っていただきました。
※聞き手は元プロボクサー(日本ライト級元チャンピオン)の坂本博之さんです
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対照的なライバルだった円谷幸吉
〈坂本〉
君原さんが東京、メキシコオリンピックでどんな活躍をされたかも、ぜひ聞かせてください。
〈君原〉
これはとてもお恥ずかしいことですけど、私は東京オリンピックで日本代表選手としてあるまじきことを2つしているんですね。
オリンピック選手村はユートピア(理想郷)のようなところで、楽しく幸せでした。試合が終わった選手が次々に集まってくると次第に浮かれた雰囲気になりました。最終日のマラソン競技の選手たちにとって、その雰囲気はよくないというので、私たちマラソン選手3人は東京から電車で2時間離れた逗子でレースの1週間前、最終調整をすることになりました。
ところが、私は自分の甘い判断で、2日間、練習が終わるとコンディション調整を疎かにしてオリンピックを見に行きました。もう一つは、素晴らしい思い出にするため選手の記念品である絹のスカーフに日本陸上選手団のサインを集めて回ったんです。それはいまでも大事な宝物ですが、同時に恥の宝でもあります。冷静さを失った単なる思い出づくりの行動でした。
その点、円谷さんは私が浮かれている時でも選手村に戻ることはなく、逗子で黙々とコンディション調整を続けていましたね。
結局、円谷さんは自己記録を2分上回って銅メダル、私は自己記録に3分30秒及ばない8位で、精神的な弱さがもろに表れる成績となってしまったんです。
〈坂本〉
君原さんと円谷さんは、ある意味対照的な存在だったわけですね。
〔中略〕
〈君原〉
私はボストンマラソンの1か月前に結婚し、甘い新婚生活に浸っていたのですが、金栗四三さん(NHK大河ドラマ「いだてん」の主人公/日本人初のオリンピック選手)の弟子でもある高橋さんは
「青春時代にしかできないことは、青春時代にやっておかなくてはできない。肉体的限界はいましか極められない」
と強く私を説得し、その燃えるような情熱に押されるように競技者生活に戻ることを決断したんです。
円谷さんはどうかというと、東京オリンピックの前から結婚を考えている女性がいました。私も彼が遠征先で指輪を買う姿を見たことがあります。しかし、ご自身が勤めていた自衛隊の上官から「メキシコオリンピックという大事な試合の前に結婚する奴がいるか」と横やりを入れられ、結局、結婚は破談になり、結婚に賛成していたコーチも異動になってしまう。
円谷さんはメキシコを目指そうとした、私は競技をやめようとした。円谷さんは好きな人との結婚を断念した、私は結婚した。本当に対照的な二人でしたが、そうやって私たちの明暗は分かれていくことになるんですね。
亡きライバルのために走ったメキシコ五輪
〈坂本〉
円谷幸吉さんは結局、自ら命を絶ってしまわれますが、あれは確かメキシコオリンピックの前のことでしたね。
〈君原〉
はい。忘れもしません。1968年1月9日のことでした。
円谷さんはとても責任感の強い人で、責任を果たすことができないという現実に追い込まれ、潰されていったのだと思います。自衛官として国を守る職務を全うしなくてはいけないという思い。それがそのまま競技者円谷にも移行していたのでしょうね。亡くなる半年前、広島でのレースで「メキシコでもう一度メダルをとる。それが国民との約束だ」と話されていたのを、いまもよく覚えています。
〈坂本〉
君原さんにとっても辛い出来事でしたね。
〈君原〉
円谷さんが亡くなった日、私は北九州にいて、記者からの電話でそのことを知りました。五輪を共に戦った戦友のような思いもあり、とにかく悔しかったですね。悔しくて悲しくて、グラウンドに出てがむしゃらに走りました。もっと杯を傾け、話し相手になってあげていたらと思うと、悔やんでも悔やみきれません。
私はメキシコオリンピックのスタートラインに立った時、このレースは本当は円谷さんが走りたかったのだから、円谷さんのために走ろうと思いました。
円谷さんは小学校の運動会で後ろを振り向きながら走ったことがあって、父親から「そんなみっともない走り方をするな」と窘められたことがあるんです。以来、後ろを振り向かない選手になってしまって、東京オリンピックでは競技場に入る時にイギリスの選手がすぐ後ろを走っていることに気がつかず、追い抜かれてしまいました。あくまで私の臆測ですが、後ろを振り向いていたら抜かれずにすんだかもしれません。
私もレース中は極力後ろを振り向かないようにはしていますが、メキシコオリンピックのスタジアムが見えて、もうすぐゴールという時、これは円谷さんからのインスピレーションだったのでしょうか、振り向くと少し後ろに選手がついてきていました。追い抜かれまいと振り切って銀メダルを獲得することができたんです。
〈坂本〉
君原さんは円谷さんの魂を見事に引き継がれていますね。
(本記事は『致知』2020年3月号 特集「意志あるところ道はひらく」より一部を抜粋・編集したものです)
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【著者紹介】
君原健二(きみはら・けんじ)
昭和16年福岡県生まれ。東京、メキシコ、ミュンヘンと五輪3大会連続でマラソン競技に出場し、メキシコでは銀メダルを獲得。平成3年新日本製鐵退社後は九州女子短期大学教授などを歴任。競技者として35回、市民ランナーとしては39回、通算74回のフルマラソンをすべて完走。今年3月には東京オリンピックの聖火ランナーとして福島を走る。
坂本博之(さかもと・ひろゆき)
昭和45年福岡県生まれ。児童養護施設で育ち20歳でプロデビュー。全日本新人王・日本ライト級チャンピオン、東洋太平洋ライト級チャンピオンを獲得。平成19年に現役を引退。現在は自身が会長を務めるSRSボクシングジムで後進の育成に務めるとともに、「こころの青空基金」を設立するなど養護施設の支援を続ける。