〝民の父母〟としての天皇:苦難の時期に読み継ぐ「祈り」の御製

天皇陛下とは「祈り」であるーーそう語るのは、弊社刊『日本は天皇の祈りに守られている』著者・松浦光修さんです。戦後の日本人が忘れてしまった天皇陛下の「祈り」に込められたものとは。長引くコロナ禍に社会が翻弄されているいま、苦難の時期に詠まれた御製を引用しながら天皇と日本人の関係を紐解きます。

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「祈り」を知らないいまの日本人

〈松浦〉
あらゆる「災い」が世界中に拡散しても、「パンドラの箱」の底には、「希望」が残っています。あの時(東日本大震災の時)、国民は、巨大な悲劇の中でも、写真や映像をとおして両陛下の「祈り」のお姿を拝し、日本人として生まれた者が、ひとしく尊い「祈り」に包まれているということを、たしかに知ったのです。

『万葉集』には、こういう歌が残されています。

  御民我 生ける験あり 天地の 栄ゆる時に あへらく思へば
(海犬養宿禰岡麻呂)

歌意は、こうです。「天皇の国の民の一人として、本当に私は生きていてよかったと思います。なぜなら私は、あの詔にあらわれているような善政の恵に、天や地の神々とともに、浴することができるのですから……」

そのような感激は、何も遠い昔の万葉人のものだけではなかったのです。それは今の私たちのものでもあった……ということを、あの時、私たちは改めて知りました。

しかしながら、天皇陛下の「祈り」について、戦後の日本人は何も教えてもらっていません。ですから、そのことについて、ほとんどの日本人は老若男女、何も知らないままです。

(中略)いわば日本人は、70年近くも「体」から「魂」を引き離されつづけてきた、ともいえるでしょう。もしも、このまま放置しつづければ、いつか日本人の「魂」は、ほんとうに「体」から分離してしまうのではないか……と、私は心配でなりません。

我が国の古語には、「玉の緒」という美しい言葉があります。「玉」というのは「魂(たま)
」のことで、人には、その魂を体につないでおくための、ヘソの緒のような「緒」がある……と古代の人々は考えていました。その「緒」が切れて分離したらどうなるのか……というと、その時、人は死んでしまうのです。ですから、玉の緒には「命」という意味もあります。

そう考えると、いま、日本人の「体」と「魂」とを結んでいる「玉の緒」は、もう切れる寸前なのかもしれません。もしも切れていまえば、たとえ〝物質的〟な意味での「日本」は残っても、日本という国の「命」は、なくなってしまうでしょう。

〝民の父母〟としての無償の愛

(中略)

天皇陛下の「祈り」の内容とは、どのようなものなのでしょうか。上皇陛下がまだ皇太子のころ、こんなことをおっしゃっています。

「天皇は……伝統的に国民と苦楽をともにするという精神に立っています。このことは、疫病の流行や飢饉にあたって、民生の安定を祈念する後奈良天皇の写経の奥書などによっても、あらわされていると思います」(昭和61年)

ここに見える第105代・後奈良天皇は、戦国時代の天皇です。この時代の皇室は、長くつづいた戦乱の余波で、経済的にお困りでした。しかし、そのような状態であっても後奈良天皇は「民」のため、篤い祈りをささげられています。天文9年、世間で疫病が流行していることを心配され、ひそかに「般若心経」を写し、醍醐寺の三宝院などに納められているのです。

三宝院に納められたお経の末尾には、天文9年6月17日の日付で、こういう一文が書かれています。

「今年は、天下に疫病が流行り、多くの民が死に瀕しています。私の民の父母としての、徳が足りないからである(原文・「朕、民の父母として、徳、覆うこと能はず」)(中略)」

ここに見える「民の父母として」という言葉は、天皇というご存在の本質をあらわした言葉として、いまも広く知られています。ご自身の経済的な苦しみよりも、民の苦しみに心を痛められ、それをご自身の〝不徳〟としてお責めになる。そのような君主が、外国では(伝説上はともかく)歴史的に実在したでしょうか。けれど日本には、そのような天皇が、いつの時代にもいらっしゃるのです。

 幕末のころの第121代・孝明天皇(1831-66)も、そういうお方でした。孝明天皇は、欧米諸国による日本の植民地化の危機を憂えて、こういう御製(天皇のお歌)をお詠みになった、と伝えられています。

朝夕に 民安かれと 思ふ身の 心にかかる 異国(とつくに)の船

(中略)

もう一つ、孝明天皇の御製として伝えられるものに、こういうものもあります。

澄ましえぬ 水に我身は 沈むとも 濁しはせじな 四方の民草

「澄ましえぬ水」とは幕末の騒然とした世相を、激しくたけり狂う濁った川の流れにたとえて詠まれたものでしょう。ですから歌意は、こうなります。

「(濁流のようないまの時代を)私は(もとの清らかな流れのように)澄まそうと努めているのですが、私の力が及ばず、澄ますことができません。けれども、たとえ私の身は、その濁流に飲まれようとも、東西南北の我が国の民を、その濁流に飲ませるわけにはいかないと、私は覚悟しています」

このような民に対する「無償の愛」こそ、悠久の昔より、いまも脈々と、皇室に受け継がれているご精神です。このようなご精神を、昭和天皇はつぎのように、まことにすがすがしく、詠みあげていらっしゃいます。

我が庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを 祈る朝々(昭和50年)

……(後略)……


(本記事は弊社刊『日本は天皇の祈りに守られている』〈松浦光修・著〉から一部抜粋・編集したものです)


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◇松浦光修(まつうら・みつのぶ)
昭和34(1959)年、熊本市生まれ。皇學館大学文学部を卒業後、同大学院博士課程に学ぶ。専門は日本思想史。歴史、文学、宗教、教育、政治、社会に関する評論、また随筆など、幅広く執筆。現在、皇學館大学文学部教授。博士(神道学)。著書に『日本は天皇の祈りに守られている』(致知出版社)がある。

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