医は仁術なり。無私無欲に感染症と闘った緒方洪庵に学ぶ

写真=史跡緒方洪庵旧宅・塾

天然痘やコレラなど、幕末の日本で猛威を振るった感染症と闘い、医学史上に不朽の業績を残した蘭医学者・緒方洪庵。洪庵が開いた「適塾」は、福沢諭吉や橋本左内など近代日本を代表する人材を数多く輩出し、現在の大阪大学の源流になっています。医療を仁術として捉え、近年ではテレビドラマ『JIN -仁-』で人気を博した洪庵は、どのように天然痘と向き合っていたのか。感染症と闘うリーダーの姿勢とは。大阪大学適塾記念センター准教授の松永和浩さんのお話を抜粋してお届けします。

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「死に至る病」に果敢に立ち向かう

松永和浩さん

適塾を開いて以後、洪庵の歩みの中で特筆すべきなのは、やはり日本に疱瘡(ほうそう/天然痘)の予防接種を広めたことでしょう。

天然痘はウイルスによって空気感染しますが、発症すると高熱と全身の紅斑を生じ、実に2割から4割が死に至り、治癒しても顔などに痘痕が残るという恐ろしい感染症です。日本人も古来、天然痘に長く苦しめられ、「疱瘡が済むまで我が子と思うな」と言われたほどでした。戦国武将の伊達政宗が右目を失ったのも天然痘が原因です。

当時その対処法として、罹患者の痘痂(かさぶた)の粉末を鼻腔に植えつけ、免疫を獲得する「人痘種痘法」が行われていました。しかし、これは大変危険な方法で、感染・重篤化して死に至るケースが多くありました。洪庵も、町人のお婆さんから「孫にどうしても」とせがまれて人痘種痘法を行ったところ、その子が亡くなるという経験をしています。

そうした中、1849年に天然痘ワクチン(牛痘苗)がオランダ船によって長崎に到来します。これは1796年にイギリスの医師ジェンナーによって発見された「牛痘種痘法(牛から感染する牛痘のウイルスを人間に接種して天然痘の免疫を獲得する安全な方法)」に基づくもので、その説は19世紀前半に伝来してはいましたが、1849年に初めて日本において種痘が成功するのです。

それを知った洪庵は、さっそくその牛痘苗を手を尽くして取り寄せ、蘭方医の日野葛民、薬種商の大和屋喜兵衛に協力を仰ぎ、「大坂除痘館」を開設。大坂除痘館のための借家は喜兵衛が提供し、大坂町奉行天満与力の荻野七左衛門とその父・勘左衛門らも、資金面等から洪庵の活動を支えました。

その際の設立趣意書には、

「世上(せじょう)の為(た)メニ新法を弘(ひろ)むることなれハ、向来(きょうらい)幾何(いくばく)かの謝金を得ることありとも銘々己レか利とせす、更ニ仁術(にんじゅつ)を行ふの料とせん事を第一の規定とす」

とあります。この趣意書から、洪庵たちがいかに自らの儲けや名誉を考えずに、種痘の普及と人々の救済に取り組んでいったかが非常によく伝わってきます。

ところが、数年が過ぎた頃、「子供たちに有害だ」「治療を受けると牛になる」などという噂が巷間に広まり、除痘館には人が集まらなくなってしまうのです。それでも洪庵は決して諦めません。米やお金を渡して貧しい子供に来てもらったり、いまでいうチラシに当たる引札を配ったりしてワクチンが途絶えるのを防止しました。

当時の状況は、「其間社中各自の辛苦艱難(しんくかんなん)せること敢(あえ)て筆頭の尽くす所ニあらす」と記されています。

そうした苦難を乗り越え、洪庵たちの取り組みが幕府に公認されたのは1858年。大坂除痘館の設立から10年近い歳月が経っていました。そこには事業に懸ける洪庵の並々ならぬ熱意もさることながら、洪庵を支援する大坂町奉行の役人や商人の人的ネットワークの力も大きかったと考えられます。

その後、牛痘種痘法は大坂除痘館を拠点にして西日本を中心に広がりました。ちなみに種痘医の免許制度は、明治に実現する医師免許制度の原型ともいわれています。


(本記事は『致知』2020年12月号 特集「苦難にまさる教師なし」より一部を抜粋・編集したものです)

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◇緒方洪庵(おがた・こうあん)
文化7(1810)年~文久3(1863)年。江戸後期の蘭学者・医者・教育者。備中(現・岡山県)の生まれ。大坂・江戸・長崎で医学を学び、医業の傍ら適塾を開いて青年を教育。種痘の普及にも尽力し、日本における西洋医学の基礎を築いた。

◇松永和浩(まつなが・かずひろ)昭和53年熊本県生まれ。平成9年熊本高校卒業、大阪大学文学部入学。20年大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位修得退学。博士(文学)。22年大阪大学総合学術博物館助教、27年大阪大学適塾記念センター准教授。著書に『室町期公武関係と南北朝内乱』など。

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