洋画の巨匠・野見山暁治 絵の「神髄」は中学の先生が教えてくれた

現代を代表する洋画家の一人、野見山暁治さん。戦後七十数年にわたり、画壇の第一線で創作に情熱を傾けてきた、まさに巨匠である。そんな野見山氏が絵の「神髄」を学んだのは、世界で知られる名画やその描き手ではなく、意外にも中学校の先生だったという。

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幸運と共に歩んできた画家人生

――お仕事はずっとこのアトリエでされているのですね。

〈野見山〉
はい、そうです。しかし、あまり仕事がたまってくると福岡の仕事場に持っていくんです。交際が多いものだから。

僕が生まれた筑豊炭田は、石炭が主要燃料だった時代に最も栄えた界隈です。親父はその炭鉱の荒くれ者相手の仕事ですから、絵なんて描いていると「何やってるんだ!」といつも怒鳴っていましたよ。

ひどい話があって、一度久々に帰省したら、鶏小屋の横に僕の絵がいっぱい積んであって、親父は「邪魔だから捨てた」って(笑)。

――大切な絵を……。

〈野見山〉
だけどね、僕はそんな親父でよかったなと思っている。絵について一家言あるような親だと、最近の絵画のあり方について述べたり、息子の絵に意見を言ったりするけれど、ああいうものが一番いけない。

親父は長男の僕に炭鉱を継がせたいと考えていて、大学の工学部にでも入れるのが夢だったけれど、僕は幼い頃から見事にその夢を破っていた。ちゃんと学校に行ける成績じゃないんです。それで運よく東京美術学校に入りましたけどね。後で考えたらこれは非常に幸運でした。

――と言いますと。

〈野見山〉
あの当時は石膏デッサンが入試の実技試験だったんですが、それを美術学校の先生が開いている塾で教えていて、そこで習っている人は皆、非常にうまいんですよ。

僕はそこにいた先生の助手さんから「君は初めて石膏デッサンを描いたのか」と言われたんですが、中学一年から毎日のように描いていた。でも教える人からするとそう見えたんでしょう。

作品が仕上がると助手が皆の絵に序列をつけて並べ、大先生を呼んでくる。やってきた先生は序列の上のほうから見ていかれたんですが、一番下のほうに並んでいる私の絵を見て「これは誰が描いたんだ」と言われた。そして

「皆、よく見なさい。上のほうにある作品は石膏の立体感を表している。特にあの一枚なんかは見事なものだ。でもこの(野見山氏の)絵は立体感というよりも、石膏の“重さ”を描いている。重さを描いているのはこれ一枚だけだ」と。

そして私の名前や生まれ、習った中学の絵の先生の名前などを根掘り葉掘り聞かれました。きっとあの時、僕を美術学校に入れようと思われたんでしょうね。

絵とは不可思議で深遠なもの

――絵を一目見ただけでピンとくるものがあったのでしょうね。

〈野見山〉
ところがね、学校に入ったら非常につまらなかったんですよ。石膏の絵を描く興味が一つも湧かず、あんなものを描くのはごめんだという気持ちが自分にはあった。だから先生の言うこともあまり聞かず、成績は20番中ビリから1番か2番。

結局僕は卒業を半年前に繰り上げて、ソ連国境に連れていかれましたが、戦前の芸術家というものは一般に恵まれた人種でした。皆が食えなくてその日その日にガツガツしてるのに、この絵買ってちょうだい、なんて言えば「うるさい」となってしまいますから。

――戦後はどのように過ごされたのですか。

〈野見山〉
戦後数年は法令が敷かれ、東京の住民にさせてくださいと言っても聞き入れてもらえなかったんです。仕方なく故郷の福岡にいた頃、四国で代用教員をしていた今西さんという絵描きが私たちの町にやってきました。

なんとなく天才肌の人だったから、自分が描いた絵を持っていったところ、コテンパンにやられましてね。なんだこれはと。君は美術学校を出たから、物の見方が偏狭で非常にアカデミックだ。ちゃんと正面から見ないといけないとおっしゃった。

その人の絵を見ると、あぁそうかと納得させられるような絵で、以来その人のもとへ日参しました。残念ながら翌年肺病で亡くなりましたが、この人から受けた感化は大きかったですね。

――東京に行けなかったことが幸いだったかもしれませんね。

〈野見山〉
そうですね。もう一人忘れられないのが中学時代の先生です。先生は僕に

「いいかぁ、野見山。見てみろ。あそこに家があるだろう。そしてその向こうに木があるだろう」

と指を差された。

「君はあの立体的な風景を1つの画面に入れたがっているが、たったこれだけの平面に収められるわけがない。本当はできない相談なんだ。しかしどうしてもそれを入れるとなれば、入れ込むための“術”が要る。絵とはその術を探ることなんだよ」

とおっしゃった。

要するに絵とは不可思議で、深遠なものなんだと。そういう絵の神髄のようなものを伝えてくださったんですね。それは非常にありがたかったと思います。


(本記事は『致知』2012年4月号 連載「生涯現役」より一部抜粋したものです)

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◇野見山暁治(のみやま・ぎょうじ)
大正9年福岡県生まれ。昭和18年東京美術学校油画科を卒業。応召、満州に派遣後、入院。27年より滞仏。31年サロン・ドートンヌ会員。33年安井賞受賞。43年東京藝術大学助教授(のち教授)就任。52年『祈りの画集 戦没画学生の記録』(共著、日本放送出版協会)を出版。平成4年第42回芸術選奨文部大臣賞など受賞多数。12年文化功労者。エッセイの名手としても知られる。

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