運命を受け入れて生きる——楽聖・ベートーヴェンの素顔と「遺書の真相」

2020年12月に生誕250年を迎えた楽聖・ベートーヴェン。その音楽はいまなお時代を超えて、人々の心を打ち、人生を励ます偉大な力を持っています。ベートーヴェンの生涯の歩みと偉大な音楽が生まれた秘密を、音楽学者の平野昭さんに紐解いていただきました。

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運命を受け入れ生きる

<平野>
1800年、29歳の時に最初の交響曲を発表したことを皮切りに、ベートーヴェンの作曲への情熱が噴出します。ところがその才能を羨むかのように、次々と苦境がベートーヴェンを襲いました。

20代の半ば頃から難聴に悩まされるようになります。音楽家にとって命の次に大切な聴力、それが前途洋々の20代で失われていったベートーヴェンの心中は如何ほどだったのでしょうか。難聴を周囲に打ち明けることができずに、次第に演奏会やパーティーの場から姿を消し、人付き合いが悪くなっていきました。また、慢性腸カタルを患い慢性的な下痢に悩まされるなど、体の至るところに病気を抱えていたベートーヴェンは日記にこう綴っています。

「勇気を出せ。たとえ肉体に如何なる欠点があろうとも、我が魂はこれに打ち勝たねばならない。25歳、そうだ、もう25歳になったのだ。今年こそ、男一匹、本物になる覚悟をせねばならない」

この言葉は、ホメロスが記した古代ギリシャの英雄叙事詩『イリアス』からの引用ではないかと思われます。ホメロスは「過酷な運命は自分を強くする」との言葉も残していますが、ベートーヴェンはそうした言葉に心から共感し、自分の言葉としたのでしょう。

1802年、31歳の時にベートーヴェンは悪化した聴覚障害の苦悩に耐え切れず、遂に命を絶とうとまで考えるほど追い込まれたようです。ウィーン郊外のハイリゲンシュタットで弟たちに向けて遺書を書いているのです。

「自己の芸術的能力をすべて発揮するより前に死がくるとしたら、それはあまりに早すぎる。(略)だが、そんな場合でも私は幸せだろう。なぜならそれが、私を果てることのない苦しみの状態から解放してくれないはずはないからだ。死よ、望むときにいつでも来るがよい、私は勇敢にお前に立ち向かうだろう」

この手紙はベートーヴェンの死後に引き出しの中から見つかったもので、実際に弟たちが目にしたかどうかは定かではありません。しかしよく読むと、これは遺書ではなく、天から与えられた運命を受け入れ、力強く生き抜こうという宣言であることが分かります。

自らしたためるうちに、不思議と力が湧いてきたのでしょう。耳が聞こえないとしても、自分の中からメロディがなくなったわけではない。音は心の中にある、そう確信を強めていったのです。

この生命的危機を乗り越えたベートーヴェンは作曲家として一層情熱を滾らせ、自分の感情を音楽にぶつけるようになりました。悩み、苦しみ、喜び、祈りを五線紙に書き連ね、次々に名作を生み出していったのです。


(本記事は『致知』2020年12月号 特集「苦難にまさる教師なし」から一部抜粋・編集したものです)

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◇平野昭(ひらの・あきら)
昭和24年神奈川県生まれ。武蔵野音楽大学大学院修了。西洋音楽史及び音楽美学領域、1819世紀ドイツ語圏器楽曲の様式変遷を研究。特にハイドン、モーツァルトからベートーヴェン、シューベルトに至る交響曲、弦楽四重奏曲、ピアノ・ソナタを中心にソナタ諸形式の時代様式及び個人的特徴を研究。沖縄県立芸術大学、静岡文化芸術大学、慶應義塾大学教授を歴任。著書に『ベートーヴェン』(新潮社)など多数。

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