「私は何ものも恐れない」客死の前年、野口英世博士が書き残した人生信条

Ⓒ国立国会図書館「近代日本人の肖像」

雪深い福島・猪苗代湖畔の農家に生まれ、1歳半の時に左手に大火傷を負い自由を失うも、学問に一路邁進し世界的な学者となった野口英世博士。黄熱病の研究に光をもたらした不屈の闘志は数多くの伝記でも描かれていますが、根底には「報恩」の心が絶えず湛えられていたことが、遺されたいくつもの手紙から浮かび上がってくるといいます。「まて己れ咲かで散りなば何が梅」などの句を含め、博士の人格が窺える言葉の数々を、野口英世記念館(福島県)の館長を務める八子弥寿男さんのお話で味わいます。

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勤勉だけではない偉大さ

〈八子〉
私が館長を務める野口英世記念館には、野口博士が、小学校時代の恩師である小林栄先生や、同級生だった私の祖父などに宛てた手紙が所蔵されています。その中の一つに次のような文言があります。

「平素小生の心掛けは人となること、学問は第二と存申候。小生は性質に数多くの大切なる弱点と欠点を有し居申候。然(しか)し始終人としての錬修(れんしゅう)に心留め、幾分なり補正し行く決心に御座候。時々猛省して苦しく思うこと有之申候」

24歳で渡米して2年後の明治35年に小林先生に送ったものの一節で、博士が優れた先輩研究者たちと米国で接する中で、人間として磨かれてきたことをうかがわせる内容です。

渡米するまでの博士は、自らが学問を修めることを第一としていました。研究者として身を立てられればという思いでひたすら突き進んだのです。

順天堂医院に籍を置く21歳の時、私の祖父に出した手紙に、

「まて己れ咲かで散りなば何が梅」

とあります。何があろうと、学問の世界で花を咲かせてみせる、という強い気持ちが表れています。

また、伝染病研究所にいる時に、やはり祖父に宛てた手紙には、研究所にいるエリート研究者に対して、「あの連中と同じに見ないでくれ、自分は違う」といった大言壮語とも見えることを書いています。

同級生に対してだからこそ、他の人には言えない本音を書いているのでしょうが、博士には、学問に対してそれだけの野心と気概がありました。

「休んでなどいられない」

冒頭の手紙のように、渡米後はその刺々(とげとげ)しさはなくなり、人格が陶冶されていったようですが、それでも、学問に対する気概だけは終生変わりませんでした。それはどこから生まれてきたのでしょうか。

博士は別の手紙で、「自分のいままでの勉励は母に報い母を慰めんとするのがその目標であった。将来もまたそうである」と書き、「小子の最大の快楽は故山(故郷)の恩人を喜ばせ奉るに有候」と書いています。この2つの思いが、博士の根底にはあったのです。

周知のように、農家に生まれた博士は1歳半の時、左手に大やけどを負い、将来も農業に従事することができない体になりました。

母・シカは、自分の不注意でそうさせてしまったという悔悟の念から、どんな苦労をしてでも息子を学問の分野で一人前にしたい、という気持ちを強く持っていました。

博士はその母の気持ちを痛いほど感じていたからこそ、自分は頑張らなければという思いが、人一倍強かったのだと思います。

母を喜ばせたい――その一心で博士は学問に邁進しました。睡眠時間を減らしてまで研究に没頭し、なぜそこまでするのかと尋ねられた時、

「いまこの時間に世界のどこかで同じ研究をしている人がいるはずだ。その人に勝つには休んでなどいられない」

と答えたといいます。母の気持ちに応えようという思いに根ざした、学問への強い気概で研究に励んだのです。

しかし、学問に没頭するにはお金が必要です。野口家は貧しかった。その博士に援助を惜しまなかったのが、「故山の恩人」たちでした。私の祖父もその一人でした。

伝記などでは、巧みな弁舌で周囲に金銭を無心したように書かれることが多いのですが、実際はそうではありません。小林先生にしても祖父にしても、支援をした人は、われこそが博士の面倒を見るのだという思いを持っていたようです。

おそらく博士には、人にそういう気持ちを起こさせる、人間的魅力と秀でた才能があったのだと思います。そして猪苗代(いなわしろ)の地から日本へ、そして外国へと活躍の場を広げていく博士の出世を自らの楽しみとしていたのではないでしょうか。

博士は、そうした人々や母の思いを感じ、それに報いていく「報恩」の精神を持った人でもありました。

最も尊きものは慈愛の徳

博士は帰国時に、「忍耐」という言葉をいくつかの場所に書き残しています。

貧困、そして左手が自由に使えないというハンディキャップ。この2つを背負いながら勉学に励み、自分に期待を寄せてくれる人たちの思いに応えて名を成すには、相当な忍耐が必要だったのでしょう。

その博士は医学の研究を進めるとともに、冒頭の手紙にあるような「人としての錬修」に努め、晩年には師である小林先生に次のように書き送っています。

「此の世の中にて最も尊きものは慈愛の徳に御座候」

また、

「小生は如何(いか)なる任務を帯びて此世に出で来たりたるやは存ぜず候も、人道にさえ忠誠なればそれにて良きことゝ存候」

とも書いています。博士はこの言葉どおり、慈愛の徳、人道への忠誠を第一として、人々を苦しめる病原菌の研究に命を捧げました。

昭和2年、黄熱病の研究のため、アフリカに赴きます。その際、

「私は何ものも恐れない。私はこの世界に何事かをなさんが為に生まれてきたのだ。私はそれを完結したいと思うのである。私の死すべき時が来たら私はそれに往く外はないのだ」

という手紙を書き残しました。そして翌年、黄熱病に感染し、51歳でその生涯を終えます。

こうした博士の生涯から、私たちは、不屈の精神、孝行心、ハンディに負けない強い気持ち、忍耐、人格の向上などの大切さを学べるのではないでしょうか。そして、それらを後世に伝えていくのが、私の使命であると感じています。

◇八子弥寿男(やご・やすお)= 野口英世記念館館長

(本記事は月刊『致知』2010年7月号 連載「致知随想」から抜粋・編集したものです)

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