「近代日本郵便の父」前島密に学ぶ——〝自分がやらねば〟の一心が成し遂げたもの

明治時代、新政府の発足とともに欧米列強による植民地化の危機をひしひしと感じていた日本にとって、近代化は必須の急務でした。そんな中、渋沢栄一とともに社会インフラの整備に大活躍をしたのが、「近代日本郵便の父」としても知られる前島密です。郵便事業の創設は前島が成し遂げた仕事のあくまで一つですが、創設までの歩みには「自分がやらねば誰がやる」という前島という人物を貫いていた信念が如実にあらわれています。
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急務だった「駅逓制度」の改革

駅逓(えきてい)制度とは、郵便制度の母体となった制度のことである。江戸時代末期ともなると、幕府御用の継飛脚や大名飛脚のほか、江戸や大阪をはじめ大都市の間には町飛脚も発達していた。

飛脚問屋の営業は、明治になっても続けられており、政府の公用文書もこれらの飛脚問屋によって送達されていた。当時の新政府は毎月1500円の代金を払って彼らに業務委託していたというが、当時の国家予算は2000万円ほどであり、この負担は馬鹿にならない。

政府が自ら事業としてうまく運営できれば、公文書のみならず国民にも広く利用してもらえ、同時に財政支出を削減できるかもしれない。しかし彼らにそんなノウハウなどない。欧米の視察経験がある渋沢栄一(租税正・改正掛長)でさえ、駅逓制度改革に着手するのには躊躇があった。

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この時、頭を抱える面々に代わって手を挙げたのが前島密である。彼の勇気ある決断に対し、渋沢は敬意を込めて次のように回想している。

〈私共が幾ら考へて見たけれども、宜(よ)い思案もない。ところが前島さんが専ら任じて、宜しい己(おれ)が一つやつて見ようと云ふ……〉(『追懐録』)

前島の中には、今でいう起業家精神が横溢している。当時はまだ国会が開設されていなかったから、彼らは今の官僚と政治家の両方の役割を果たさねばならなかった。この前島の心意気は、政治家はもちろんだが、今の官僚にもぜひ見習ってもらいたいところである。

江戸時代を通じて飛脚の社会的地位がきわめて低かったことも、官営にすることのハードルだった。うまく話を持って行かないと太政官会議で否決されてしまう。そこはうまく根回しをして、事業官営化の方針が決まった。

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明治3年5月10日、前島は租税権正のまま、新事業担当の駅逓権頭の兼任を命じられる。

駅逓司(〝司〟は省内部局の意)には〝頭(かみ)〟が欠員であったから、事実上の長官である。職階の低い者を責任者にせざるを得ない時、明治新政府がよく用いるやり方だった。前島に自由にやらせてみようというわけである。腕が鳴った。

まずは新事業の名称を決めねばならない。〝飛脚便〟と呼ぶ案も出たが、これでは従来の飛脚と区別がつかない。そこで考えられたのが〝郵便〟であった。

前島の造語というわけではない。江戸時代の漢学者の中にはすでに飛脚のことを〝郵便〟と呼ぶ者もおり、それを採用したのだ。〝郵〟とは元来、宿場を意味する漢字であった。

官営するにあたっては、従来の飛脚制度をそのまま踏襲するのではなく、一気に欧米と同様の近代的制度を導入しようとした。彼らの志はあくまでも高い。だが、制度の詳細を知ろうと海外文献を探したが無駄だった。欧米諸国にとって郵便制度はすでに日常的なものとなっている。わざわざその運営ノウハウが出版されているはずもなかったのだ。

海外経験のある人を探して尋ね歩きもしたが、郵便制度に関心を払って研究した者などいない。ただ渋沢栄一が1枚のフランス切手を持ち帰っていて、これを書状の表に貼り付けて郵送する仕組みになっていたことを教えてくれた。

切手で料金を前納することはわかったが、再使用をどうやって防ぐかがわからない。消印することには考えが及ばなかった彼らは、濡らすと破れる薄弱の紙を用いて再使用できないようにしたらどうかなどと真剣に議論していた。すべてが手探りだった。

英国視察での衝撃を力にして

明治3(1870)年6月、なんとか新式郵便制度の立案を成し遂げた前島だったが、遅ればせながらその施行直前になって、英国に渡るチャンスが訪れた。

鉄道建設のために起債した外積に関するトラブル解決と太政官札偽造問題解決のヒントを得るために政府が使節団を派遣することになったのだ。郵便制度を実際その目で見られることに胸を躍らせた。

 そもそも英国は1840年(日本の天保11年)、世界に先駆けて近代郵便制度を始めた国である。世界最初の切手(ペニー・ブラック)も英国で発行され、前島たちが訪れた時にはすでに郵便制度施行後30年の歳月が経っていた。

市街では郵便列車が走り、郵便汽船が運航している。普及の仕方や自供規模など、すべてが想像を絶していた。政府内でも郵便行政は1部局ではなく、それのみの役所が設けられ、長官は大臣に列している。

とりわけ前島が注目したのは、距離の遠近にかかわらず全国一律の料金で配達されていることだ。採算を度外視して過疎地にも一律料金で届け、かつ料金前納の切手に信用力を持たせようとしたら、やはり郵便事業は国家運営以外に考えられない。官営にこだわった自分の直感の正しさを再認識した。

前島は養老保険や養老年金についても興味を持ち、研究を行っている。当時、英国ではすでに為替と貯金に加え、保険業務も取り扱っていたのだ。まさに現在の日本の郵便局の原型がそこにあった。

 ***

明治4(1871)年815日、1年2か月ぶりに帰国すると、前島は旅装も解かず、その足で築地の大隈邸に赴いた。いても立ってもいられなかったのだ。

彼が外遊してた間の明治4年3月1日、前島が青写真を描いたわが国の郵便制度は〝東京―京都―大阪〟を結ぶ形で発足。駅逓司は大蔵省に移管され、初代駅逓頭(郵便行政の長)には浜口梧陵が就任していた。安政南海地震の折の津波から村人を救った〝稲むらの火〟のエピソードで知られるヤマサ醤油創業家当主である。人格識見ともに優れた人物だが、郵便制度に詳しいわけではない。

前島は大隈に対し、浜口に代わって自分を駅逓頭にしてほしいと願い出た。地位欲しさで言っているのではない。1日もはやくわが国の郵便制度を英国並みにしたいという抱負が彼の中に渦巻いていたのだ。

そのことは当然伝わる。大蔵卿はあの大久保利通だったから話は早い。帰国して2日後、彼は希望通り駅逓頭に就任する。

それから1年後の明治5(1872)年7月1日には、全国に1000か所を越える郵便取扱所を開設し、北海道の北半分や南西諸島を除く全国に郵便網を築き上げた。今日の特定郵便局の多くは、それを前身としているのである。


(本記事は『日本を創った男たち』(北康利・著、小社刊)より一部抜粋・編集したものです)

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◇前島 密(まえじま・ひそか)
新潟の豪農上野家に生まれる。江戸で洋学を修め、全国を周遊後、幕臣前島家を継ぐ。明治新政府に出仕し、イギリス留学から帰国後、駅逓頭・駅逓総監などを歴任し、我が国近代郵便制度の創設に尽力した。明治14年の政変により政府を去り、立憲改進党の結成に参加。また、東京専門学校(現早稲田大学)校長、関西鉄道社長を務めた。明治21年(1888)逓信次官として官界に復帰、電話事業の創始にあたる。退官後は再び実業家として活躍。のち、男爵、貴族院議員。

◇北 康利(きた・やすとし)
昭和35年愛知県生まれ。東京大学法学部卒業後、富士銀行入行。富士証券投資戦略部長、みずほ証券業務企画部長等を歴任。平成20年みずほ証券を退職し、本格的に作家活動に入る。『白洲次郎 占領を背負った男』(講談社)で第14回山本七平賞受賞。著書は『日本を創った男たち』(致知出版社)など多数。近著に『胆斗の人 太田垣士郎』(文藝春秋)がある。

 

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