失われゆく「日本の面影」を書き記して——小泉八雲に学ぶ〝共生〟の異文化理解

「耳なし芳一」や「雪女」、「ろくろ首」――日本人ならば誰でも知っているであろうこれらの話を、明治時代に英文著作を通じて海外に広く紹介した小泉八雲。ラフカディオ・ハーンとして1890年に来日した八雲は、6年後に帰化し、日本が西洋化の波に呑み込まれつつあった時代、独特な感性と公平な視座を持って失われゆく古きよき日本の心を克明に書き記し続けました。本記事では、その波乱に満ちた生涯といまを生きる私たちに遺したメッセージを、八雲研究に長年携わってきた早稲田大学名誉教授・池田雅之氏に語っていただきます。

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独自の異文化理解を培った出自と生い立ち

〈池田〉
八雲は1850年、アイルランド人の父チャールズとギリシア人の母ローザの間に、ギリシアのレフカダ島で生まれました。

その後まもなく、父チャールズは西インド諸島に赴任し、八雲は母ローザとともにアイルランドのダブリンに移住。八雲が3歳の時に父は戻ってきますが、母への愛は既に冷め、母も異国の生活に馴染めなかったのか、神経の病を発症して故郷のギリシアに帰ってしまいます。以後、八雲は二度と母に会うことはありませんでした。

そして、昔の恋人と再婚した父も、八雲をダブリンに残してインドに赴任し病死してしまいます。こうして八雲は幼くして天涯孤独の人生を歩み始めるのです。

ダブリンに住む大叔母サラ・ブレナンに引き取られることになった八雲は1863年、13歳でイギリス北東部、ダラム市近郊のカトリック神学校、ウショー・カレッジに入学。八雲の回想によれば、ここで非常に退屈で厳格なカトリック教育を受けたようです。しかも、16歳の時にグラウンドの遊具で左目を強打し、失明するという不幸にも見舞われます。

八雲はウショー・カレッジの生活を通じてキリスト教への反発を強め、また家庭が崩壊してしまったこともあって、自分はこの世界に居場所がないという自覚を深めていきました。とはいえ、古くは多神教世界だったアイルランドとギリシアの血を引く出自、一神教であるキリスト教への反発が、八雲の偏見を持たず公平にそのよい部分を見ていこうとする異文化理解と、豊かで鋭い感性を形づくったのは確かだと言えるでしょう。

そして19歳になった八雲は、単身アメリカへと渡ります。大叔母の遺産を騙し取られ、食い詰めてのアメリカ行きでした。

数年間は、様々な職種を転々とするどん底の生活を余儀なくされますが、それでも図書館などで読書をし、自己研鑽を怠らなかった八雲は、アメリカ社会の辛酸を舐め尽くした末、ようやくジャーナリズムの世界に活路を見出します。

そんな八雲がなぜ日本にやってくることになったのでしょう。その最も大きな理由の一つは、1889年頃、当時東京帝国大学で教鞭を執っていたイギリスの言語学者バジル・ホール・チェンバレンが英訳した『古事記』を知人から借りて読んだことだと伝えられています。八雲はこの『古事記』に大いに感銘を受けたのでした。

日本に関心を深めていった八雲は、アメリカの雑誌社の特派員として日本に行く機会を掴み、1890年、バンクーバーから船に乗って横浜港へと向かうのです。

八雲が目指した〝共生〟の世界

〈池田〉
(中略)5か月余り横浜に滞在した八雲は、18908月末、チェンバレンの仲介で英語教師の職を得、島根県の松江に赴任します。

片目が不自由なことと関係しているのかもしれません。八雲の作品には、「耳の文芸」といわれるほど聴覚で捉えたものの記述が多く見られます。これは八雲が異文化を理解する時に、文献などを読むだけではなく、音や声をとおして心身ともに日本に共鳴し、全身全霊でその本質にアプローチしていることの表れだと言えるでしょう。

その一例を、「神々の国の首都」という作品から見てみましょう。

「神々の国の首都」は、松江に到着した八雲が、旅館・富田屋で迎えた朝の印象記です。その冒頭は、「松江の一日は、寝ている私の耳の下から、ゆっくりと大きく脈打つ脈拍のように、ズシンズシンと響いてくる大きな振動で始まる」と、音の描写から始まっています。

その響きの伝わり方は、まるで心臓の鼓動を聴いているかのようである。それは米を搗く、重い杵の音であった。(中略)一定のリズムで杵が臼を打ちつけるその鈍い音は、日本の暮らしの中で、最も哀感を誘う音ではないだろうか。この音こそ、まさにこの国の鼓動そのものといってよい。

米は太古の昔から日本人の主食であり、日本人の食生活と文化の根幹にあるものです。その米を搗く音を日本の鼓動そのものだと捉えたこの一節は、日本文化の本質に迫っていく八雲の聴覚的な想像力の見事な一例だと言えます。

(…中略…)八雲が松江で過ごした時間は意外と短く、1891年に熊本、1894年に神戸に赴任と、各地を巡りながら、創作活動と学生への講義を続け、最後は東京で54歳の生涯を閉じています。

そして、八雲晩年の傑作といえば、日本の古ぼけて埋もれてしまった伝説や仏教説話などを掘り起こした再話文学『怪談』でしょう。

これは単に恐ろしい話を集めた作品ではなく、八雲の母や知人であったりした死者が、妖怪や幽霊という姿で現れてくる八雲の内面の告白、魂の遍歴を示す自伝的作品なのだと私は思います。また「雪女」や「青柳ものがたり」にせよ、そこには必ず「潔さ」「清らかさ」「勇気」などの日本人の美徳、あるいは「愛」「信頼」といった人として生きる上での普遍的倫理観がそれとなく描かれているのです。

八雲が没して100年以上の月日が流れました。その間に、八雲が書き遺した日本の美徳も失われつつあるという感を日増しに強くします。八雲もまた「蓬莱(ほうらい)」という作品で変わりゆく日本を次のように記し、警鐘を鳴らしています。

〝西方(西洋)から、邪悪の風が蓬莱(日本)に吹きわたり、あの不思議な精気は、ああ悲しいことに、風の前にかき消えてゆきます。今や、あの精気は散りぢりになって漂うばかりです。〟

また、日本の将来について、
〝自然は過ちを犯さない、生き残る最適者は自然と最高に共存できて僅かなものにも満足できるものです。宇宙の法則とはこのようなものです。〟
とも書き遺しています。八雲が説いた自然や超自然との共生、善良、素朴なものへの愛、質素、節約といった日本人の美徳を、私たちはいま一度見つめ直さなくてはなりません。そして、それに留まらず、国家や宗教間の紛争、テロなど、憎しみが絶えない現代においては、一人ひとりが視座を高め、国家や民族の違いを超えて認め合う、〝共生〟の世界観を創り出していくことが求められるでしょう。

いま一度、一人ひとりが八雲の声に真摯に耳を傾けた時、かつて八雲が日本に見出し、また目指したユートピア、誰もがお互いに認め合って幸せに生きていける世界を実現できるのだと思います。

(本記事は『致知』2016年5月号「視座を高める」を再編集したものです)

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◇小泉八雲(こいずみ・やくも/ラフカディオ・ハーン)
1850年~1904年。ギリシアのイオニア諸島にあるレフカダ島で、アイルランド人の父とギリシア人の母の間に生まれる。幼くして父母と別れ、19歳で渡米。以後世界各地を転々とし、1890年日本に来日。1896年帰化して小泉八雲と改名。学生に英文学などを講義する一方、鋭い感性で日本人の内面や文化の本質を明らかにする作品を書き続けた。

◇池田雅之(いけだ・まさゆき)  
昭和21年三重県生まれ。早稲田大学英文科卒業後、明治大学大学院文学研究科英米文学博士課程満期退学。早稲田大学教授。専門は比較文学、比較基層文化論。著書に『ラフカディオ・ハーンの日本』(角川選書)、編著に『古事記と小泉八雲』(かまくら春秋社)、翻訳にラフカディオ・ハーン『新編日本の面影』『新編日本の面影Ⅱ』『新編日本の怪談』(いずれも角川ソフィア文庫)など多数。

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