「挑戦こそわが人生」。全盲の弁護士・竹下義樹はいかにして夢を実現したか

「その夢を持った途端に、心にパッと光が点るような思いがしました」――。若き日の純粋な志を貫き、視覚障害という大きなハンディを乗り越えて弁護士となった竹下氏。前例のなかった視覚障害者の司法試験受験を実現させた先にも受験勉強の困難が待ち受けていました。困難への挑戦の連続であった竹下氏の歩み、そして弁護士としての信念を伺います。
(※インタビュー内容は2006年当時のものです。)

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家計を支えながらの受験勉強

〈内海〉
いまから26年前、34歳で長男・隼吾を授かった時のことです。血液検査の後、診断名を主治医から告げられ、頭が真っ白になりました。

「検査の結果、お子さんには21番目の染色体が3本あり、先天性の異常が認められました。ダウン症です」

母として、障がいのある子をちゃんと育てられるだろうか、自分はこれまでと違う道を行くことになるのだろうか……この時、私の心は荒海に突き落とされたような不安感でいっぱいでした。

しかし、地元神奈川の療育施設をいくつか訪れる中で、障がいのある子を何ら特別視せず、その子が笑顔でいることを大切にする親や職員さんたちと出逢いました。

不安だらけだった私にはその姿がとても眩しく、また無邪気に笑う隼吾を見ながら、たとえダウン症があっても隼吾は隼吾、愛する息子であることには何も変わりがない。すべては心のありよう次第なのだと、徐々に気持ちを切り替えることができました。翌年には次男の竜太も生まれ、子育てに追われる日々が続きました。

家計を支えながらの受験勉強

〈竹下〉 
紆余曲折がありながらも、とうとう法務省が司法試験の点字受験実施を認めたのは昭和48年2月のことでした。

当時は、点字の六法すらない劣悪な学習環境でしたが、早速その年の5月に受験をしました。しかし、点字の読み書きは通常の1.53倍かかるのに時間延長は認められなかったり点訳の誤字脱字が多かったり、課題山積の状態でした。

しかし、私の挑戦がマスコミでたくさん取り上げられ、国会でも点字による司法試験の不合理を説明させていただく機会を与えられましてね。問題点も徐々に解決され、また法務省が論文式試験で点字六法を準備したことから、点字の六法全書が市販されるなど、次第に環境は改善されていきました。

――本格的に受験に専念できる環境になったわけですね。

〈竹下〉 
「竹下義樹君を支援する会」の皆さんには、法律書の点訳、録音、勉強の際の直接の読み聞かせなど本当にお世話になりました。ようやく市販された点字の六法全書は全51巻で12万円もしましたが、ボランティアの皆さんがカンパを集めて購入してくれたのです。

――夢へのひたむきな思いが、大きな支援を呼び込んだのでしょうね。

〈竹下〉 
というよりも、僕は他人から見たら非常に分かりやすい人間なんだと思います(笑)。じっと我慢するのではなく、言いたいことをどんどん口にする、夢も常に口にする。そういう自分を、周囲の皆さんも放っておけなくなったんじゃないでしょうか。

――大きな支援が逆に重荷になることはありませんでしたか。

〈竹下〉 
僕はそこは能天気なんです。応援していただくことを当たり前と思うほど生意気でも傲慢でもないけれど、プレッシャーを感じずに頑張れるタイプなんですね。確かに目が見えないハンディはあるけれども、あれだけたくさんの人たちに応援していただくことは、普通の受験者ではあり得ない。僕は心底幸せに思いました。

――難しい試験に、いかに挑戦していかれましたか。

〈竹下〉 
当時京都大学の学生と一緒に勉強していたんですが、彼らは1週間に最低50時間は独習しろと言うんです。その上で実習ゼミ、討論会、答案練習会等に参加して仲間と切磋琢磨する。しかし、僕にはそこまで時間を確保することができませんでした。というのは、僕は大学の点訳サークルで出会った女性と学生結婚していて、僕のことをずっと支えてくれていたんですが、彼女との間に子どもも生まれ、僕はマッサージのアルバイトをしながら家計を支えていたのです。バイトには56時間、多い日には810時間も費やしていましたから、どう頑張っても週35時間の独習が限度でした。

――いかにして事態の打開を。

〈竹下〉 そこで割り切ったんです。彼らが週50時間独習して3年で受かるなら、俺は5年かかってでも絶対受かってやろうと。そう思ったことが気持ちの切り替えになりましたね。

――一家を支え、仕事と勉強を両立させるのは容易なことではありません。

〈竹下〉 
逆に結婚していたからこそ、長い受験生活の中で精神的安定を保てたと思うのです。家庭があったから、失敗を繰り返す中で、短気になったり、投げやりにならずに済んだのです。

按摩、鍼、灸の仕事にも魅力を感じていました。僕はいまの弁護士の仕事でも、新しい人に会うのがとても楽しみなのですが、按摩、鍼、灸も、人様との接触の中で痛みを癒やしたり、疲れをほぐして喜ばれる。やりがいを感じていたから続いたのだと思います。

9度の挑戦でついに念願を果たす

――試験に受かったのはいつですか。

〈竹下〉 
昭和56年、30歳の時でした。9度目の受験の時でした。

――長い受験生活の支えになったのは何ですか。

〈竹下〉 
弁護士になりたかったこと。やっぱりこれに尽きます。それでも気持ちがぐらつくことはしょっちゅうでした。本気でやめようと思ったことも3度ありました。しかし、そのたびに必ず誰かが助けてくれて、立ち直ることができました。

自分に自信が持てなくなって、亡くなった僕の恩師に「もう先生あかんわ。わしの能力では無理や」と言ったこともありました。先生は負けず嫌いな僕の性格をよく知っていましてね。黙って僕の言うことを聞いた後、法律の議論をぶつけてくるんです。答えられず悔しがっているところで、「竹下君は本当に頑張っているとは思えないよ」と言い捨てて帰ってしまった。それでやる気を取り戻したことがありました。

もう引退されましたが、いまでも尊敬している先輩弁護士がいましてね。その方は僕に、「甘えるな!」と本気で言ってくださいました。目が見えなくて苦しんでいる人間に、なかなか言えないことだと思うんです。それをあえて言ってくれたおかげで、僕はもう一度机に向かうことができたんです。

(中略)

――目がご不自由なことで活動に差し支えることはありませんか?

〈竹下〉 
確かに最初はものすごく恐怖感がありました。ちゃんと証拠を集められるかとか、気づいていないこともあるのではないかとか。

依頼人の中には率直な言い方をする人もいましてね。「目が見えなかったら、これはできないでしょう」と。

――あからさまに。

〈竹下〉 
ショックですよ。そういうことを言われるたびに僕は、どうしたらこの依頼者に納得してもらえる仕事ができるだろうかと考えてきました。その中から、現場主義ということが身に付いたのです。

――現場主義ですか。

〈竹下〉 
分かりやすく言えば、見えなければ触ったらいいんです。例えば、土地の境界線上の問題で、原告が「隣の家が、枝をノコギリで切って問題をごまかそうとしている」と訴え、被告が「枝を切ったことはあるが、それは30年も前の話だ」と言う。写真で説明を受けても僕はダメです。そういう時にはすぐ現場に行くんです。その切り口が古いか新しいかは、触ったらすぐ分かるんです。

たとえ目が見えなくても、どうしたらいい仕事ができるか、どうしたら依頼者に納得してもらえるか。このことを依頼者とのぶつかり合いの中で追求し続けてきたことが、いまの僕をつくっていると思いますね。

(本記事は『致知』2006年5月号 特集「節を越える」より一部を抜粋・再編集したものです)

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◇竹下義樹(たけした・よしき)
昭和26年石川県生まれ。中学3年の時、外傷性網膜剥離で失明。50年龍谷大学法学部卒業。在学中より視覚障害者の司法試験受験の実現を目指して運動を展開。点字受験の道をひらき、56年合格。京都法律事務所を経て平成6年独立、竹下法律事務所を設立。生活保護など社会保障関係の訴訟を中心に活動。昭和62年第24回点字毎日文化賞。著書に『ぶつかって、ぶつかって。』。

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