〝花〟だけではない、坂村真民の詩を貫く〝一筋の骨〟——人間学を探求した四大哲人に学ぶ④

97歳で亡くなる最晩年まで、一日も休むことなく詩業に命を燃やし続けた詩人・坂村真民氏。その生涯で遺した詩は1万篇以上にも及びます。「念ずれば花ひらく」という8文字に代表されるように、氏の紡ぐ言葉は時に悲しみに寄り添い、時に弱くなった心を鼓舞し、生きる勇気を湧き立たせてくれるものばかりです。それらの詩を貫くもの、原点とは何だったのか――。氏の歩みをその傍らで長く見守っていたご息女・西澤真美子さんにお話いただきました。

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母の恩に報いるために

〈西澤〉
小学校校長の長男として生まれた父は、何の苦労も知らずに幼少期を送っていたといいます。ところがその父親が若くして突然亡くなったことで、坂村家の生活は一変します。「5人の子供を自分の手で育てる」と譲らなかった気丈夫な母親のおかげで、一家は離れ離れにならずに済みましたが、待っていたのは貧しい生活でした。

当時8歳だった父は長男として母親を助けるために、畑を借りて蕎麦をつくったり草鞋を編んだりして生活の足しにしていたといいます。そんな状況ですから、普通であれば小学校までというところを、阿蘇の火を見て育った気概を持つ母親は、中学校、そして神宮皇學館(現・皇學館大学)まで行かせてくれたのでした。

父はよく「詩をつくるのは、母への恩返し」と言い続けてきました。母親の恩に報いたいという父の深い思い。それが一つの道を歩き続けるという、父の生き方を決定づけたのかもしれません。

そんな母のことを詠った「念ずれば花ひらく」という詩は、父の代表作の一つとなりました。

念ずれば/花ひらく/苦しいとき/母がいつも口にしていた/このことばを/わたしもいつのころからか/となえるようになった/そうして/そのたび/わたしの花が/ふしぎと/ひとつ/ひとつ/ひらいていった

体験が信仰を本物にする

〈西澤〉
この詩が生まれたのは、父が短歌から詩に転向した40代のことです。教師の傍ら、短歌の研究者になりたいと借金までして専門書を蒐集していた父が詩に転向したのは、戦後のことでした。

40代からという遅い出発に焦りを感じた父は、厳しく自分の生活を律し、勉学にも励みました。例えば仏典の中に「疑えば花ひらかず信心清浄なれば花ひらいて仏見たてまつる」という言葉があると聞くと、その出典を確かめようと膨大な仏典『大蔵経』を紐解きました。

3年以上かけて3度読み返すうちに、ようやく「解の部」というところにその言葉を見つけたのですが、あまりに目を酷使したため、父の片目は失明寸前まで追い込まれてしまいます。

宇和島にいい眼科医がいると聞くと、父はそこに通い始めました。評判の眼科医とあって待ち時間が長いため、父はよく病院の向かいにあった護国神社で時間待ちをしていたそうです。

ある時、境内にモチノキの赤い実がいっぱい落ちていたので、その赤い実を手のひらにのせていると、ふとタネという名前だった母親の姿が浮かんできたそうです。そして「自分はまだ母に全然恩返しもしていないのに、こんな目の見えない体になって、母に申し訳がない」という思いが胸に込み上げてきたのです。

きっと父も苦しかったのでしょう。そんな父の胸の内に、苦しみながらも愚痴一つ言うことなく、「念ずれば花ひらく」と唱えていた母親の姿が甦ってきたのです。この時「念ずれば花ひらく」という詩が生まれました。この詩は、父が逆境の中で生み出したものなのです。

その後、父の片目は何とか回復に向かうのですが、その数か月後に今度は内臓を悪くします。食べ物が喉を通らず、寝ていても起きていても苦しく、ただ壁に寄り掛かっているのがやっと。医者からは「がんだ」と言われていたようですが、ある方の勧めで父は薬草で治そうとしていました。

私は当時幼稚園児だったこともあって、父の病気のことはほとんど記憶にありませんでした。父がそのような状況であっても、不思議と家の中が暗くなかったからなのかもしれません。

3か月後、ようやく苦しみから脱した時に生まれたのが、「桃咲く」という詩でした。

病が/また一つの世界を/ひらいてくれた/桃/咲く

「体験が信仰を本物にする」と父はよく口にしていました。苦しい体験を乗り越えることで、何かあるとすぐにぐらぐらしてしまう自分を鍛え上げていく。そう思っていたからこそ、どんな苦労や厳しいことに対しても、父は常に前向きに生きていけたのだと思います。

「詩 一筋の骨」

〈西澤〉
40代の父というのは、人生において最も迷いの多い時期だったように思います。そのふらふらしていた自分に一本の筋がとおるようにしたのが、個人詩誌『詩国』の発刊でした。

父が一遍上人の本を読んだのはおそらく49歳になってからのことでしょう。一遍上人は「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」の願を立てられ、「六十万人往生」と書いたお札を配って歩かれました。しかし、その賦算は25万1724人で終わっていたため、父はお札の代わりに詩をつくって配ることで、その後を継ぎたいと考えるようになったのです。

もっとも、当初は『詩国』発刊にとても慎重でした。「詩というものには自分の心や生き方が全部出る」と父がよく言っていたように、「この人は、この一か月は精神がちょっとだらけていた」とか「いい詩ができていない」ということがすぐ見抜かれてしまいます。もちろん、まず自分自身が一番よく分かるわけですが、それだけ詩とは怖いものなのです。

さらに一度発刊し始めたら、時間的にも精神的にも休みは一切なくなり、いつもピーンと張りつめた状態でいなければいけません。果たしてそれを一生続けるだけの覚悟が自分にはあるのか。その問い掛けが、決心を鈍らせていたのだと思います。

そんな父に『詩国』発刊を決意させたのは、国民教育の師父と謳われた森信三先生でした。その時、父は森先生と3日続けてお会いしていて、そのやりとりの中で決心がついたのだと言っておりました。

多い時で毎月1200名の読者に『詩国』を郵送していましたが、必ず封筒の中にふっと息を吹きかけてから封をしていた父の姿が懐かしく思い出されます。宛名もすべて手書きで大変だったと思うのですが、「これは自分の仕事だ」と言って家族には一切手伝わせることもなく、行のように一人黙々とやっていました。

色紙を求められると、「念ずれば花ひらく」など優しい言葉をよく揮毫していた父でしたが、ある時「詩 一筋の骨」と書かれた色紙を見つけました。「こんなに強い言葉も書いていたのか」とハッとしたことがありますが、その色紙が『詩国』発刊後に書かれたことが分かると、「あぁ、やはり父はあの時に本当に強い覚悟が決まったのだな」としみじみと思ったものです。53歳にして始めた『詩国』が仏教詩人、坂村真民をつくり上げていったのです。


〈上記は月刊『致知』2016年2月号特集「一生一事一貫」より一部抜粋・編集いたしました。最後に『自選 坂村真民詩集』(弊社刊)より「白金の骨」をご紹介いたします。〉

たとえどんなに短かい詩であっても/その中には一すじの骨が/白金のように/キラキラと光っていなくてはならない

火にも鎔けず/水にも腐らない/一条の筋金が/貫かれていなくてはならない

さてそれをわたしは/どこから得ようか/乾坤凝りて/不壊の白金となるまで/詩に生き/詩に痩せねばならぬ


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坂村真民(さかむら・しんみん)
20歳から短歌に精進するが、41歳で詩に転じ、個人詩誌『詩国』を発行し続けた。仏教伝道文化賞、愛媛県功労賞、熊本県近代文化功労者賞受賞。
一遍上人を敬愛し、午前零時に起床して夜明けに重信川のほとりで地球に祈りを捧げる生活。そこから生まれた人生の真理、宇宙の真理を紡ぐ言葉は、弱者に寄り添い、癒しと勇気を与えるもので、老若男女幅広いファン層を持つ。

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