最後の瞽女(ごぜ)小林ハルさんとの日々で掴んだもの 美術家・木下晋

『ゴゼ小林ハル像』1983
(木下晋画文集『祈りの心』より)Ⓒ木下晋
盲目の旅芸人・瞽女(ごぜ)として105年の天寿を全うした小林ハルさん、元ハンセン病患者の櫻井哲夫さん、谷崎潤一郎の代表作『痴人の愛』のヒロイン・ナオミのモデルとされた和嶋せいさん……。
実に多様な人物たちの顔や姿を、10Bから10Hまでの鉛筆を使い分け緻密に、濃密に描き込んでいく。鉛筆画の第一人者と呼ばれる、木下晋さんの制作スタイルです。決して恵まれてはいなかったという少年期を経て、画家の道に進み、いかにして自分の表現に辿り着いたのか。自分にとって最も大事なのは絵を描くことではないと語る木下さんの半生に迫ります。

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知りたいという思いを 鉛筆画に込めて

〈木下〉
私はこれまで50年以上にわたって、画家として様々な人や動植物を描いてきましたが、私を絵に向かわせてきたのは「描きたい」という思いよりも、

「その人のことを知りたい」

という衝動でした。私にとって描くことは手段であり、知りたいから描くのです。

そのような私の原点は、故郷の富山で過ごした幼少期に遡ります。

1950年、3歳の時に実家が火事で焼失したことで、私たち一家は郊外の山麓の番小屋に移り住むことになり、父は失業、母は兄を連れて家出し、弟は餓死するなど極貧生活を余儀なくされました。幼い私の唯一の友といえば、自然の中に生きる草花や動物たちだけでした。

この体験がある種の人恋しさによる、出逢った人や自然を深く知りたいという思いに繋がっているのでしょう。

人生の転機が訪れたのは、中学2年の夏。この頃まで私は授業中の態度が悪く、美術の成績が悪い状況でした。しかしどうした訳か、先生が夏休みに彫刻作品を造る機会を与えてくれたのです。その作品の出来がよかったのか、私は先生の紹介で富山大学に通い、美術の勉強をすることになったのでした。

以後、中学と大学を行き来しながら彫刻を学び、家ではデッサンに取り組む日々を送っていたのですが、高校一年の時に知人の勧めで出品した『起つ』という絵が、思いがけず自由美術協会展という権威ある展覧会に入選。これは当時の最年少記録であると同時に、プロの画家として認められた瞬間でもありました。

『起つ』1963
(木下晋画文集『祈りの心』より)

ただ、入選しても「絵では生活ができない」と、プロになるのを躊躇する人は多くいます。しかし、一家離散、極貧生活の中にいた私は、「むしろ絵描きになれば食べていけるかもしれない」という逆転の発想で、画家の道に進むことを決めたのでした。

自分の表現に〝オリジナリティ〟はあるか

その後、妻や絵画の蒐集家などの支援によって絵を描き続けていく中で自信を深めていった私は、「自分の油絵を売り込んでやろう」と、1981年、34歳の時にニューヨークへ。

しかし日本と欧米は芸術作品や文化の違い以上に評価対象にはほど遠く、いくら作品が技術的に優れていてもオリジナリティを問われると評価には致命的でした。

自分にしかできないこと、オリジナリティとは何か――。その答えを求めて、ニューヨーク中の画廊を訪ねて歩いたのですが、そこになかった表現形態は〝鉛筆画〟でした。

鉛筆は黒一色で表現の幅が限られると思われていましたが、私はむしろ、鉛筆の種類や筆圧の違いによって濃淡が変わり、細い線で皺一本まで書き込めるため、緻密な表現域が拡がると考えたのです。

その頃、旅先の新潟の山間僻地のひなびた一軒宿で出逢ったのが、瞽女(三味線の弾き語りをする盲目の女性旅芸人)で重要無形文化財保持者(人間国宝)になったばかりの小林ハルさんでした。三味線を抱えた彼女は、私が宿泊する旅館で人間国宝になった「恩返しコンサート」を開催していたのでした。

当時の私は瞽女が何なのかも知らず、偶然、興味本位で演奏を聞いたのですが、彼女が第一声を発した瞬間、部屋の障子がビリビリ震えるほどの、これまで聞いたことのない音域に心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けたのです。

極限を潜り抜けて掴んだもの

東京に戻ってもハルさんのことが頭から離れず、この人を知りたいという気持ちが抑え切れなくなった私は、彼女を描こうと決意。80歳を超えていたハルさんは新潟の養護施設に入居しており、モデルの依頼は許可を得るまでに一年がかりでした。

しかし難航の末、

「えーんでねぇーの、描かしてあげれば」

とのハルさんの鶴の一声で許可されました。

ただ、制作する時間は昼休みに入る1時間のみ、2日に1回という条件でした。さらに数メートルに及ぶ積雪の真冬には、遠く離れたアトリエからハルさんのいる山深い養護施設まで、猛吹雪の中を3時間以上かけて通わなければなりませんでした。

そうしてハルさんと向き合う制作の日々が始まったのですが、彼女の佇まいには全く隙がない、例えて言えば大剣豪の如くで、下手をすれば一瞬にして勝敗が決まる、油断も許されないほどの恐怖感を覚えました。休憩時間には全盲にもかかわらず細い針の穴に糸を通すなど、神業の如き姿に驚きと緊張の連続だった記憶はいまも忘れません。

とんでもない人と向き合っているのだとの思いを深くしながら、私はこの人をもっと知りたいという一念で、鉛筆を走らせていきました。

初の鉛筆画『ゴゼ小林ハル像』は、こうして完成しました。ハルさんを描くことができたのは、命の危険を顧みず激しい雪の中を通う中で心の雑念が削ぎ落とされ、何としても描くのだという覚悟が定まっていたからでしょう。

その後も、ハンセン病患者で詩人の桜井哲夫さんなど多くの人を描いてきましたが、その根本にあったのは、彼らの命と向き合う真摯な姿に「この人をもっと知りたい」と感じたからでした。動植物など自然に対しても私の表現姿勢は変わりません。また、自分を虚心坦懐にして相手を知ろうという思いを持つことで、初めて多くのことを知る可能性が拡がるのです。

現代人は、物資的な豊かさや高度な科学技術を手に入れた半面、民族間の紛争や環境破壊など様々な問題に直面していますが、大自然の摂理に基づく、謙虚な姿勢を蔑ろにした報いを受けているように思えてなりません。

これからもあらゆることに好奇心を持ち続け、学び続けることで、私の作品が人間や自然の本質に目を向ける大切さなどを感知できるほどの表現に到達できたら、これ以上嬉しいことはありません。


(本記事は月刊『致知』2018年10月号 連載「致知随想」より一部を抜粋・再編集したものです)

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◇木下 晋(きのした・すすむ)
1947年富山県生まれ。美術家、鉛筆画家。東京大学工学部建築学科講師、武蔵野美術大学客員教授、金沢美術工芸大学大学院教授などを歴任。17歳の時、自由美術協会展に最年少で入選。画家の麻生三郎、美術評論家の瀧口修造、本間正義らとの知遇を得る他、現代画廊の洲之内徹にも認められる。81年渡米。帰国後、鉛筆による新たな表現に取り組む。著作に画文集『祈りの心』(求龍堂)『生の深い淵から――ペンシルワーク』(里文出版)、絵本『ハルばあちゃんの手』『はじめての旅』(福音館書店)『森のパンダ』(講談社)『いのちを刻む 鉛筆画の鬼才、木下晋自伝』(藤原書店)などがある。

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