巌流島の決闘の真実~剣豪・宮本武蔵の知られざる実像~

不朽の古典『五輪書』を著し、生涯でただの一度も勝負に負けなったという宮本武蔵。しかしその実像はいまだはっきり知られているとは言えません。宮本武蔵に関する画期的な論考を数多く送り出してきた歴史研究家の福田正秀さんに、宮本武蔵との出会いと有名な巌流島の戦いの真実について教えていただきました。ご対談のお相手は、写真家・土門拳の高弟、藤森武さんです。

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武蔵の画から伝わる優しさ

(藤森) 

福田さんが武蔵に惹かれたきっかけも教えてもらえますか。 

(福田) 

私が宮本武蔵研究に取り組むようになったのはいまから35年前。熊本に移り住み、武蔵が書いた水墨画の真筆を見たことがきっかけでした。当時、熊本県立美術館で開催されていた永青文庫展に出品されていたんです。 

武蔵の画には、国の重要文化財にも指定されている『蘆雁図屏風』『紅梅鳩図』『鵜図』などの野鳥の図、その他に達磨図、布袋図などの禅画があります。武蔵の真筆の前に立つと、よく解説で言われる剣豪の殺気、剣気というものとは違う、どこか温かい優しさのようなものが伝わってきたんです。 

(藤森) 

ああ、画から優しさが。 

(福田) 

例えば、永青文庫蔵の国重文指定『紅梅鳩図』を見てください。画幅の中央やや右寄りに一木の梅の古木が画かれ、その枝に一羽の鳩が止まって毛を膨らませ、ぬくぬくとまどろんでいる図です。墨一色で描かれているのに、温かい春の日差しや鮮やかな紅梅の色、梅の香りさえ感じられます。 

よくみると、梅の古木が人の右腕に見え、そのかざした掌に鳩が止まっているようにも見えてきます。そこからスーッと2本の若枝がどこまでも空に伸びていて、それは大小二刀で鳩の安らぎを護っているように見えます。鳩は平和の象徴、それを守るのが武士の役目だといっているように、民に優しい武蔵の心を感じました。 

この優しさはいったいどこから来るのだろうか、こんなにも心温まる画を描いた本当の武蔵とはどのような人だったのだろうかと強い興味を覚え、私は本格的に武蔵の研究に入っていったんです。 

(藤森) 

あの武蔵の水墨画から、そこまで深いものを感じ取れるというのは本当にすごいことです。

巌流島の決闘の真実

(福田) 

それから熊本に始まり、武蔵に縁のある作州宮本村(現・岡山県大原町宮本)、播州兵庫の姫路・明石・龍野・三木・高砂、さらに上方の京都・大阪、九州の小倉・中津など現地取材を重ねながら、史料を読み、子孫や研究者を訪ね、もう徹底して調べていきました。すると、それまで知られていなかった事実や通説とは違う武蔵像が見えてきて、これは本当の武蔵を世に知らせねばと思い論文を書き始めたわけです。 

(藤森) 

私も福田さんと出逢うまでは、関ヶ原合戦に西軍の足軽として参戦して敗れ、敗残兵として逃げていく過程で沢庵和尚に救われ、その後はお通さんとの愛の葛藤を交えながら剣の道を歩み、最後に佐々木小次郎と巌流島で決闘して勝利する、というような世に流布する武蔵像を信じていました。

(福田) 

それは吉川英治の小説が元になった虚像なんですね。実際には、武蔵は養父・無二斎に従い東軍の黒田方に属し、九州の豊後で西軍と戦って勝者の側にいた。黒田家の侍帳にも新免無二(無二斎)の名が確かに記されています。 

(藤森) 

豊後の関ヶ原古戦場は、別府温泉から杵築や日出、冨来城跡など福田さんの案内で足が棒になるまで撮影して回りましたね。 

(福田) 

あと、有名な巌流島の決闘に関しても間違いが多い。よくいわれるように、慶長17(1612)年4月13日、小倉藩の剣術指南役の佐々木小次郎と武蔵の決闘が細川藩公認の元、下関の舟島で行われたというのは大きな間違いです。 

例えば慶長17年という時期ですが、これは武蔵が『五輪書』の中で「29歳まで六十余度の他流の兵法家と勝負して一度も負けなかった」と書いていることから逆算し、佐々木小次郎との決闘を29歳の時の最後の試合として当てただけです。時期だけではなく、佐々木小次郎という名前も、実は後世の人が記した武蔵の伝記『二天記』の創作で、名前は不明、岩流を使う兵法者としか史料では分かっていません。 

武蔵が2時間遅れて決闘にやってきたというのも皆創作です。 

(藤森) 

これだけでも従来の武蔵のイメージは大きく変わりますね。 

(福田) 

比較的信頼性が高いのは、武蔵が正保2(1645)年に亡くなった9年後に、養子の宮本伊織が建てた『小倉碑文』と、細川藩の『沼田家記』くらいです。 

『小倉碑文』によれば、当理流の使い手であった父・無二斎は、足利将軍義昭から「日下無双兵法術者」の称号を得た剣豪で、若い頃の武蔵は父を超える「兵法天下一」を目指して武者修行していたと考えられます。また、『沼田家記』には、決闘の後、武蔵は門司城の沼田延元に匿われ、無二斎の元に送り届けられたと書かれています。 

つまり、この頃の武蔵はまだ父の影響下にあり、父に代わって小次郎と試合をしたわけです。『沼田家記』でも、武蔵に敗れた小次郎はいったん甦生したものの、周囲に隠れていた無二斎方の弟子たちの手にかかって殺されたとされています。そもそも武蔵は人を殺すのが嫌いで、決闘の多くは木刀で行ったそうです。 

(藤森) 

これも驚きの事実です。 

(福田) 

小次郎を殺したのが無二斎の指示だったのかははっきりしません。しかし、それが許せなかった武蔵は父と決別して、当理流を継がずに独自の「円明流」を創設したと私は考えています。 

なぜなら、円明流伝書である『兵道鏡』の跋に、「慶長九年初冬頃、忽然として審らかに的伝の秘術を積り、明鏡の書を作り……」と記されているからです。そうであれば武蔵と小次郎との決闘も通説の慶長17年ではなく、円明流を開いた慶長9年ということになります。武蔵23歳の時です。 

いずれにせよ、巌流島の決闘が武蔵の人生の大きな転機になったことには間違いないでしょう。

(本記事は『致知』2020年6月号 特集「鞠躬尽力」から一部抜粋・編集したものです)

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◇藤森武(ふじもり・たけし)

昭和17年東京都生まれ。写真短期大学(現・東京工芸大学)在学中から土門拳に師事。『古寺巡礼』シリーズをはじめとする後期代表作の助手を務める。凸版印刷写真部を経て、フリー写真家となる。『独楽・熊谷守一の世界』『隠れた仏たち(全5巻)』『日本の観音像』など写真集多数。日本写真家協会会員。土門拳記念館理事・学芸員。 

◇福田正秀(ふくだ・まさひで)

昭和23年長崎県生まれ。放送大学大学院文化科学研究科修士課程修了。宮本武蔵・加藤清正など歴史人物を研究。著書『宮本武蔵研究論文集』『宮本武蔵研究第二集武州傳来記』『加藤清正「妻子」の研究(水野勝之と共著)』『加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究』他。日本歴史学会会員。(公財)島田美術館評議員。(一財)熊本城顕彰会理事。熊本県文化協会理事。

 

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