和久傳女将・桑村綾さんが語る、和久傳旅館再建の道のり

老舗の和久傳を再建し、おもてなしの道を一途に追求してきた名女将・桑村綾さん(現在は大女将、紫野和久傳代表)。その中で直面してきた逆境や困難を交えて、経営再建の取り組みについて語っていただいた対談記事をご紹介します。対談のお相手は、画家・安野光雅さんです。

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倒産寸前だった旅館を再建

(安野)
私は桑村さんもその道を極めてきた達人だと思っていますが、和久傳の歴史も古いですね。

(桑村)
そうですね。いまから147年前の明治3年に和久傳旅館として創業しまして、縮緬産業の発展とともに京丹後の地に根づいていきました。

私は高校を出て証券会社で働いた後、昭和39年、24歳の時にお見合い結婚をして和久傳に嫁ぐことになりました。結婚する前、私の家族は旅館の女将は大変だし、和久傳旅館は潰れかかっているという噂もあるから、と強く反対していたんです。

私も最初は断っておりましたが、その頃は女性が24歳を過ぎたら行き遅れと呼ばれた時代で、和久傳からもぜひ来てほしいという話が再三ありましたものですから、ちょっと占いみたいなもので見てもらったんです。

すると、どこで占っても嫁ぐ方向が同じなんですね。「ひょっとして、これが自分の運命かな」と思って和久傳旅館に嫁ぐことを決めました。そうしたら、案の定、大変だったわけですけれども。

(安野)
私も津和野の宿屋の倅ですから、桑村さんのお気持ちはよく理解できます。私のところは、立派な木造3階建てだった和久傳旅館とは比較にならない小さな宿屋なんだけど、聞くところによると、その頃の和久傳旅館は丹後縮緬が衰退して行商人も減り、経営が厳しかったそうですね。

(桑村)
そうです。実際に潰れかかっておりました。それで商売替えをするという約束で私は嫁いだんです。実際、旅館があった場所は京丹後でも角地で1番のいい場所でしたから、いろいろな商売がやれたと思いますが、それでも現状は何とか営業を続けるしかなく、お客様を受け入れていかなくてはいけないということだけで、その頃は必死でした。

待っていただけではお客様は来られませんし、法事やお節句の注文を聞いて歩いて、料理をリヤカーに乗せて運ぶこともしました。それでも、どうしてもやっていけないというふうになった時に、地元の人たちが自発的に後援会をつくってくださったんです。忘れもしません。昭和43年のことでしたけれども、約200名の方々が10万円ずつ出してくださいましてね。

(安野)
ああ、地元の縮緬業者さんたちがね。

(桑村)
そういうご支援もあって28歳の時に山辺のほうに旅館を移しました。3000坪の敷地に料亭、宿泊それぞれの建物を建てて、自慢のカニ料理が人気を博したのですが、縮緬産業の衰退だけはやはりどうすることもできずに、大変な借金をして京都市内に店を出すことにしたんです。

この時、私は40歳でしたが、後援会をつくってくださった方々に本当に申し訳なくて、何年も悩み続けました。親からは恩義を忘れてはいけないとしっかり躾けられておりますから、皆様に報いるために子育てを顧みずに朝から晩まで一所懸命働いたのですが、最後には和久傳を潰してしまっては何にもならない、京都に出ようという苦渋の決断をしたんです。

2年間は調理場の上の6畳の屋根裏部屋で生活しました。ただ、田舎から最たる文化度の高い京都、ましてや何百年も続いている料亭、お茶屋、伝統的なお商売が軒を並べている中へ出るのですから、いま思うと足がすくみますが、必死の思いでしたね。

そこで京都ではどこもしていないことは何かと考え、京丹後の冬のカニ焼きのような洗練した野趣を味わっていただく料理の確立や、その時代、コンピュータの導入などを手掛けました。コンピュータにお客様の情報を入力し、一度来られたお客様には同じ料理を2度出さないなど、サービスの面でも多くの工夫を図りながら今日まで歩いてまいりました。

(安野)
そうでしたか。あなたがいろいろな苦労を乗り越えながら和久傳を切り盛りしてこられたんですね。

(桑村)
いまの時代にそんな話をすると皆さん驚かれるのですが、私たちの時代はそれが当たり前でした。お尻に火がついたら誰だってそうしたのではないでしょうか。娘を出産した時も、お産の日まで働いて10日も休まずに職場に戻りました。お客様がおられる3階まで上り下りしましたが、当時はそれが胎教にいいというようなことが言われる時代でした。

昨日も東京から美術館に来られたご夫婦がいました。朝6時の新幹線に乗って、京都で在来線に乗り換えて福知山で降りてバスに乗って来てくださったんです。このご夫婦をどのようにしておもてなししようかと思った時、昔からの性分が出てくるわけなんです。

美術館や森、工房、レストランを一つひとつ真心を込めてご案内して、最後には手を振ってバスをお見送りしました。この時、私は東京から7時間をかけてお客様が来てくださっていた昔のことを思い出しておりましてね。よくこんなところにまで足を運んでくださったと思うと胸がいっぱいになって、思わず後ろ姿に手を合わせたくなりました。何とも言えない喜び、満足感に包まれまして、商売冥利とはまさしくこのことでしょうね。

(本記事は『致知』2017年12月号 特集「遊」から一部抜粋・編集したものです)

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◇安野光雅(あんの・みつまさ)
大正15年島根県生まれ。昭和23年代用教員として山口県周南市の小学校に勤める。25年美術教師として上京、玉川学園や三鷹市、武蔵野市の高校で美術教師を勤め、36年画家として独立。文章がない絵本『ふしぎなえ』で絵本界にデビュー。『さかさま』『ABCの本』『旅の絵本』(いずれも福音館書店)などは海外でも評価が高い。ブルックリン美術館賞、ケイト・グリナウェイ賞特別賞、BIBゴールデンアップル賞、国際アンデルセン賞画家賞、紫綬褒章など受賞歴多数。

◇桑村綾(くわむら・あや)
昭和15年京都府生まれ。証券会社勤務を経て、39年に和久傳に嫁ぐ。丹後・峰山の衰退した和久傳を立て直し、62年には京都・高台寺に店を構える。現在は料亭業態の他、茶菓席やむしやしないの店舗を展開しており、百貨店でもおもたせとして弁当や和菓子・食品を販売している。京丹後の地域活性事業として「和久傳の森」づくり、物販商品の工房開設などを行っている。今年6月には「森の中の家 安野光雅館」をオープン。

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