2019年12月14日
敗戦後、北朝鮮で難民となり、病身の母と幼い妹と共に幾多の命の危機を乗り越えて、祖国・日本へと引き揚げてきた天内みどりさん。飢えや伝染病で多くの日本人が亡くなっていく中で、天内さんの心を最後まで支えたものはなんだったのか――北朝鮮からの壮絶な引き揚げ体験を語っていただきました。
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北朝鮮からの命懸けの脱出
(天内)
夏が来ると(北朝鮮での)収容所の暮らしも1年になります。誰もがこの夏を逃したら日本へ帰ることはできないと思うようになり、「南朝鮮まで歩いて逃げよう」という話が持ち上がりました。実際、元気な人は単独で北朝鮮を脱出していました。
子守りのオモニにそのことを相談すると、逃亡する日本人を見たら撃ち殺してもいいという指令が出ているし、絶対無理だ。私を養女にして、母と妹も引き取ってくれるとまで言ってくれました。
しかし(同じ収容所にいた)北原さんが、「みどりちゃんを養女なんかにいかせない。二人で頑張ろう。一緒に日本へ帰ろう」と、涙を流しながら抱き締めてくれたことで、私は北朝鮮を脱出することを決めたのです。
オモニにお別れを告げに行くと、彼女はたくさんの大豆を大きな鍋で炒り始め、二つの袋にそれぞれ炒り大豆とニンニクを入れて持たせてくれ、「飢えた時には、これを着て朝鮮人の家に物乞いに行きなさい」と、子供用のチョゴリを私に着せて強く抱き締めてくれました。オモニのご主人も、宝物の小さな磁石を私の手に握らせ、「とにかくこの磁石で南に歩いていくこと。泥水は飲まないように」と優しい言葉を掛けてくれました。
そして、私は最後のお別れにと心を込めて「アリラン」を歌いました。オモニも子供たちも一緒に大きな声で歌ってくれました。
8月初旬の新月の夜。北原さんが鉄条網の下に掘ってくれた穴を腹這いになって潜り、私たちは南朝鮮を目指して歩き始めました。見つからないよう10人ほどの集団になって身を潜めながら歩く。あちこちから銃声が聞こえます。
日が昇ると森の中に潜み、暗くなってくる頃にまた出発する。食べ物は、バッタやキノコなどを北原さんが見つけてきてくれました。大人たちに促され、畑に野菜を盗みに行ったこともありました。
ある日、ふと空を見上げると星の美しい夜でした。夜空に輝く北極星を父に当てはめ、「父は空から私たちを見守ってくれている」と信じることができました。星の光がまるで父の眼差しのように私を支え、励ましてくれたのです。
脱出から3、4日後、皆の疲労が蓄積してきたこともあり、夜は眠って昼に歩くことになりました。しかし、道のあちこちにソ連兵や朝鮮兵が立っており、通行させる代わりに金品を置いていけとせびってきます。ある時、木蔭から出てきた二人のソ連兵が「女を置いていけ!」と迫ってきました。
ソ連兵は、ものを物色するように銃で一人ひとりの顔を上げて覗き込み、二人の女性を道に押し出しました。泣き叫ぶ二人の女性を後に、逃げるように皆が歩き出す中で、私は何度も後ろを振り返ってソ連兵に引き摺られていく彼女たちを見ました。私たちはこの女性たちの犠牲によって助かったのだ。この悲しい光景は、いまなお私の記憶に焼きついて離れません。
死んでたまるか
(天内)
南朝鮮へと続く道には、いつの間にか私たち以外にも祖国を目指す日本人たちの長い長い列ができていました。その道端には力尽きた人が転々と倒れていました。
ある日、野宿している時に母が「水が飲みたい」と言い出しました。額に手を置くと熱い。私は辺りを見回し、芙蓉の花が綺麗に咲いている農家を訪ね、出てきた年配のオモニに「母が病気で死にそうなのです。お水を少しください」と頼みました。しかし私がお金を持っていないと分かると、オモニは「日本人に飲ませる水なんかあるもんか!」と叫び、バケツの水をバシャっと浴びせ、叩きつけるように戸を閉めてしまったのです。私は込み上げる涙を抑えることができず、庭に咲く芙蓉の花をしばらくじっと見つめていました。
多くの人が美しいと感じる芙蓉の花は、私にとっては辛く悲しい引き揚げ体験の象徴なのです。
もはや皆の疲労と衰弱は限界を超えているように思えました。後ろを振り返ると、白いチョゴリ姿の朝鮮人たちが私たちの列の後ろをぞろぞろとついてきている。そして、倒れた日本人の衣服を剥ぎ取っていました。「日本人たちは皆死んでしまうんだ。この暑さに耐えられるはずがない」。そんな声が聞こえてくるかのようでした。
そうして迎えた8月14日、この日も朝から非常に暑く、子供や老人が熱射病で次々に死んでいきました。思考力と感情が完全に消え失せてしまった私は、呆然とこの光景を眺めていました。「死んでたまるか」という思いで一歩前に踏み出す、その繰り返しです。病気の母は、まるで精神力の権化となって歩いているようでした。
しかし、どこからか「あれが板門店の礼成橋だ!」と叫ぶ声が聞こえてきました。待ちに待った38度線まで辿り着いたのです。私は横たわった母と妹の手を強く握り締め、「生きていてくれてありがとう。一緒にここまで頑張ってくれてありがとう」と心の中で繰り返し唱えました。
(本記事は月刊『致知』2019年11月号「語らざれば愁なきに似たり」の記事から一部抜粋・編集したものです。あなたの人生、経営・仕事の糧になるヒントが見つかる月刊『致知』の詳細・購読はこちら)
◇天内みどり(あまない・みどり)
昭和8年青森県生まれ。20年母と妹と共に、陸軍獣医の父がいる満洲へ渡る。引揚げ後は、1年遅れて福井の上穴馬小学校荷暮分校を卒業。22年秋、穴馬中学校から八戸の三条中学校へ転校。その後、地元の八戸東高等学校、弘前大学文理学部を経て化学教師となる。平成3年退職。著書に『芙蓉の花-北朝鮮引揚げの記録』(近代文芸社)がある。