2024年08月29日
先日行われた「パリ2024パラリンピック」の開会式で日本選手団の先導を務めたミライロ社長の垣内俊哉さん。先天性の骨形成不全症という難病を持ちながら、「ユニバーサルデザイン」をビジネスとして定着させました。障がい者も健常者も誰もがお互いを認め合って、幸せに生きていける社会の実現に邁進する垣内さんに、自らの活動の原点、苦難の時期を支えた言葉を語っていただきました。
苦難を支えた言葉
――垣内さんが事業を立ち上げられたいきさつをお話しください。
〈垣内〉
ご覧のように私はいま車椅子で行動していますが、先天性の骨形成不全症という病気を抱えて生まれてきているんです。これは私だけでなく父も弟も、遡ると明治以来代々受け継がれてきた病気です。昔はいまのように車椅子もないし、道路も舗装されていませんから私の先祖は学ぶことも働くこともできなかったようですね。
小学校に入っても骨折を繰り返し、友達とも思うように遊べませんでしたが、まだその頃は不自由さを感じるだけで、健常者、障碍者という壁や距離感は考えることがありませんでした。しかし、中学校に入ると、その壁を強く意識するようになったんです。ある時、皆で学校の掃除をさぼったことがあって、周りの友人は怒られるのに、私だけは「俊哉君は障碍者なんだから仕方がない」と。先生がそう言うので、クラスの仲間たちもそれに自然と同調していく。
この時、僅か30人の教室の中にも見えない壁が存在していると知って愕然とするんです。「可哀想な人」と自分だけが仲間外れになったような感覚でした。
――心の壁というものを痛感されたのですね。
〈垣内〉
その頃から何とか自分の障碍を克服したいと、そればかりを考えるようになっていました。私の中では克服イコール歩けるようになること、小学生の頃から続ける車椅子生活を脱することでした。それで高校に進んだものの、しょっちゅう休んでは足の手術や術後のリハビリができる病院を探し回ってばかりいました。
お年玉を使って東京や栃木、大阪、広島と何人もの医師を訪ね歩いたこともあります。両親は止めようとしたんですが、反抗期だったこともあって私は全く聞く耳を持ちませんでしたね。イライラが募って、両親に「なんでこんな体に産んだんだ」と、言ってはいけない言葉をぶつけてしまったことは、いまでも後悔しています。
高校を休学し、17歳の時に大阪の病院で手術を受けて1年近くリハビリを続けましたが、結局歩けるようにはなりませんでした。歩くことが夢であり生きる目標でしたので、それが叶わないと知った時、浅はかでしたが、自分で命を絶とうと考えたんです。
――辛い毎日でしたね。
〈垣内〉
夜中に病院の屋上に行き、柵に手を掛けてよじ登ろうとしました。でも私の足ではそれすらできない。そのことを知って柵にしがみついて泣いたんですね。深い闇に沈んでいくように、しばらくは生きる気力すら湧かず、ベッドの上で毎日を悶々として過ごしていました。
――そこからどのように立ち直られたのですか。
〈垣内〉
その頃、私を支えてくださったのが、同じ病室の富松さんというおじいさんでした。いつも泣いていたのを見ておられたのでしょうね。ある日、私に話し掛けてこられました。話にじっと耳を傾けてくださった後、「君はちゃんと登り切った先の景色を見たのかい」とおっしゃったんです。君はやれるだけのことはやったのか、と。これには目が覚める思いでした。
そして「人生はバネなんだよ。いまの君はバネがぎゅっと縮んでいる時期だ。しかし、そのバネはいつかバシッと伸びる。それを信じて乗り越えなさい」と励ましてくださったんです。
この言葉に後押しされて、それからは死に物狂いでリハビリに励みました。歩くことはできませんでしたが、10か月のチャレンジを終えた時、心の底から「やり切った」「登り切った」という晴れ晴れとした思いが湧いてきましたね。
(本記事は月刊『致知』2017年4月号「繁栄の法則」から一部抜粋・編集したものです。あなたの人生や経営、仕事の糧になる教え、ヒントが見つかる月刊『致知』の詳細・購読はこちら)
~本記事の内容~
◇ハードは変えられなくてもハートは変えられる
◇「登り切った先の景色を見たのかい」
◇飛び込み営業でトップセールスマンに
◇コンテストの賞金を元手にミライロを創業
◇誰もが認め合える社会を目指して
◇垣内俊哉(かきうち・としや)
平成元年岐阜県出身。立命館大学経営学部在学中にミライロを設立。企業や自治体、教育機関におけるユニバーサルデザインのコンサルティングを手掛ける。日本財団パラリンピックサポートセンター顧問。著書に『バリアバリュー』(新潮社)。