2億パーセント大丈夫だから——ミライロ所属講師・岸田ひろ実さんを支えた言葉

 

知的障碍のある長男の誕生、夫の死、ご自身の大病など、度重なる試練を潜り抜けてきた岸田ひろ実さん。絶望の中にいた岸田さんを救い、立ち直らせたものは何だったのでしょうか。人生の歩みを交えながら語っていただきました。

人生を変えた長男の誕生

 

(――いまの仕事に関わるまでの歩みについてお話しください。) 

(岸田) 

私はもともと平凡な主婦でした。短大を出て働いていた会社で主人と出会い、22歳で結婚したんです。間もなく長女の奈美が、4年後に長男の良太が生まれました。私の人生の1つの転機となったのが、この良太の誕生だったんです。 

分娩室で「頑張って」と明るく応援してくださっていたお医者さんや看護師さんの声のトーンが、良太が生まれた瞬間、少し変わったことが分かりました。奈美が生まれた時とは違う。変な予感はしましたが、翌日、看護師さんが小声で「先生からお話聞かれました?」って。「何のことですか?」「いや、何でもないです」。 

とても気になって、主人と一緒にお医者さんのところに行くと「この子にはダウン症という障碍があって、酷ければ一生歩けない。知的レベルも2、3歳のままで一生介護が必要かもしれない」と宣告されたんです。この言葉を聞いた時は、その場で倒れるくらいのショックを受けました。 

(――辛い一言でしたね。) 

(岸田)

 「私たちは何の悪いこともしていないのに、なぜ」と思って障碍のある子を産んでしまった自分をまず責めましたね。可愛いという感情も最初はなかなかなくて、「育てる自信はない」とか「友達にどう話そうか」とか、自分のことばかり考えていたんです。 

退院後も抱っこしながら、ふとした時に「私たち家族はこれからどうなるのだろう」という思いが頭をもたげる。子供たちにこんな遊びをさせて、こんな学校に行かせて、大きくなったら主人と2人海外旅行に行って、とそれまで思い描いていた夢が一瞬にして崩れ去っていくのを感じました。

 (――乗り越えるきっかけがありましたか。)

 (岸田) 

1番の支えになったのは主人でした。主人は少し人と価値観が違うところがあって「別に障碍があってもいいやん。そんなもん、どうなるか分からへんで」と。とはいっても1日中子供と一緒にいるのは私じゃないですか。いつも悶々としていて、ある時「親戚にも迷惑をかけるし、奈美にも苦労をかけるかもしれない。ここにいること自体が辛い」と主人に気持ちをぶつけたことがあるんです。 

いま思ったら、よくそこまでのことを主人は言えたと思いますが、「嫌だったら育てなくていいよ。施設に預けたらいい。ひろ実さえ元気でここにいてくれたら、そこまで責任を負う必要はない」。そう言ってくれました。

育てなくていい、というのはもちろん本心ではないと思います。私は、子供以前に私を見ていてくれたことがとても嬉しかったんですね。「この人がいたら乗り越えていける」と思ったら気がとても楽になって、「よし、自分で育てよう」という気持ちが固まったんです。

ご主人の死、自身の大病

(岸田) 

良太の優しい笑顔に支えられながら、家族4人、幸せな生活を送っていたのですが、それも長くは続きませんでした。主人が39歳の若さで心筋梗塞で突然亡くなってしまったんです。

(――ああ、ご主人が。)

(岸田) 

主人は阪神・淡路大震災の後、大阪で住宅の設計・リフォーム関係の会社を立ち上げていました。4、5人の従業員を抱えて東京に支店を出すくらい経営は順調でした。ただ、ベンチャー企業でしたから仕事はものすごくハードで、2年間の東京での単身赴任中は食事はメチャクチャ、ストレスは溜まる一方という生活をしていたんです。

たまに神戸の自宅に帰宅した時、体調が悪いということがそれまでにも何回かありましたが、ある日、自宅で倒れて救急車で運ばれ、そのまま帰らぬ人になりました。いまでもよく覚えているのですが、ちょうど倒れる直前の夜、主人と奈美が大喧嘩をしてしまったんですね。些細なことがきっかけで口論になり、娘は最後に「うざい、きもい、大嫌い。死ね」と言って、自分の部屋に閉じこもって寝ちゃったんです。

主人はその夜、意識が戻らないまま亡くなったので、私も娘も本当に大後悔でしたけど。

(――まさか亡くなるとは思っていらっしゃらなかった。)

(岸田) 

でも、ショックなのは1日だけでしたね。子供たちを悲しませてはいけない、主人の分まで何とかしなくては、とその一心でしたので悲しんでいる暇がなかったというのが正直なところです。

主人が体調を壊していた頃、冗談で「俺、先に死ぬわ」と言ったことがあるんですね。奈美は反抗期、良太も小学3、4年生とまだまだ手が掛かって大変な時で「そんなことよく言うわね」と本気で怒りましたが、主人は「奈美ちゃんも良太も大丈夫やから」って安心しきっていたんです。結果的に見れば、大丈夫だったのですが。

(――しかし、その後、岸田さんご自身も倒れられたのですね。)

(岸田) 

ええ。主人が倒れて2年後でした。父親を亡くして子供たちも精神的に落ち着かない状態でしたので、私も1年間は家にいて子供たちのケアをしながら過ごしていました。1年後、たまたま近くにオープンした整骨院が受付業務を応募していて、そこで働くようになりました。

もともと東洋医学には関心が高かったこともあって、仕事はとても充実していました。一応、完璧主義者というか、家事も子育ても手を抜かない主義でしたので、気がつけば平均の睡眠は4時間。夜は洗濯と掃除を終えて、明日のお弁当の準備をして床に就く。朝は5時半に起きて朝食をつくり、子供たちを送り出して仕事に行く。そういう生活を続けていたら、やっぱり倒れてしまったんです。心臓の血管が外から剥がれていく大動脈解離という死の病でした。

2億パーセント大丈夫だから

(――どういう症状だったのですか。)

(岸田) 

1月の仕事始めの日でした。新年会があるというので、1度自宅に戻って洗面所で髪の毛を触ろうとした瞬間、本当にバーンという音が聞こえるくらいの衝撃が胸に響きました。苦しみこそありませんが、自分でもこれはまずいと分かるんですね。家族に救急車を呼んでもらって、運ばれた病院ですぐに専門医を紹介され、奇跡的に一命を取り留めたんです。

(――緊急手術をされたのですね。)

(岸田) 

はい。助かるには、心臓の血管を丸ごと人工血管に変える大手術が必要でした。手術をしても命が助かる確率は2割あるかないか。それを宣告されたのが高校2年の奈美なんですね。宣告を聞いた奈美は吐いて気を失って、そのまま病室に運ばれたそうです。

幸い手術は成功しました。ところが、胸から下に麻痺が残ってしまったんですね。「命は助かりましたが、自分の足で歩くことは一生できないので、諦めてください」。そう言われた時、最初に思ったのは、病室の外で待ってくれている娘にこの現実をどう説明しようか、ということでした。

(――納得されましたか。)

(岸田) 

いつものように「大丈夫、大丈夫」と明るく言ってくれました。でも、大丈夫ではないことは私が一番分かっていました。好きなところにも行けないし、好きな服も着られない。すべてを失って、人ではなく物になってしまった。そんな気持ちでした。それ以上に年頃の奈美と障碍のある良太のこれからを思うと、深い闇に沈んでいくようでしたね。

唯一、救いだったのは約2年の入院期間中、入れ替わり立ち替わり友人が見舞いに来てくれたことです。自分はもう死にたいと思っているのに、人前ではずっと笑っていたので「岸田さんの言葉で励まされた」「駄目だと思っていたけど、岸田さんと話したら、まだ頑張れると思った」と、いつの間にか病室が悩み相談室みたいになってしまっていました(笑)。その頃から「歩けなくてもできることがあるかも」と思って心理カウンセラーの勉強を始め、少しずつ前向きになっていったんです。

(――回復は順調でしたか?)

(岸田) 

病気は順調に回復しましたが、それよりも褥瘡、床ずれのほうが大変でした。麻痺した部分の血流が悪いので、1度酷くなるとなかなか治らない。気がつくとどんどん悪化していて、大手術を2回受けることになりました。

この時は3か月間ずっとベッドに仰向けのまま自分の意思では顔も動かせない状態でした。ご飯を食べるのも歯を磨くのも、ずっとベッドの上。それだけに、ようやく車椅子で外泊の許可が出た時は天に昇るようでしたね。

ある日、娘が車椅子を押して私を街に買い物に連れ出してくれたんです。目的の店はすぐ目の前なのに車椅子では遠回りしないと行けないというようなことがいかに多いかを、この時の外出で初めて実感しました。それともう1つは人の目線ですね。どこに行っても「うわぁ、かわいそう」といった目で見られてしまう……。

「車椅子で何とかなると言ったって、何ともならないじゃない」という感情がワッと込み上げて、一所懸命に頑張ってきたものが音を立てて崩れるようでした。それが本当に辛くてレストランに入った時、「もう無理」と思って初めて娘の前で泣きました。「こんな状態で生きていくなんて無理だし、母親として、してあげられることは何もない。お願いだから、私が死んでも許して」って。

(――娘さんは何と?)

(岸田) 

「泣いているだろうな、死なないでって言われるんやろうな」と思ってふと見たら普通にパスタを食べていました。そして「知ってる、知ってる。死にたいんやったらいいよ。一緒に死んであげてもいいよ」と言ったんです。

続けて「でも、逆を考えて。もし私が車椅子になったら、ママは私のことが嫌いになる? 面倒くさいと思う?」と聞きました。「思わないよ」「それと一緒。旅行に行きたかったら行けばいいし、歩けないなら私が手伝ってあげる。2億パーセント大丈夫だから私の言うことを信じて、もう少しだけ頑張ってみようか」と言ってくれたんです。私の生き方や考え方が大きく変わったのはそれからです。

(本記事は月刊『致知』2015年12月号「人間という奇跡を生きる」から一部抜粋・編集したものです。あなたの人生、経営・仕事の糧になるヒントが見つかる月刊『致知』の詳細・購読はこちら

◇岸田ひろ実(きしだ・ひろみ)

昭和43年大阪府生まれ。主婦として二人の子供たちを育てる。現在はミライロ・日本ユニバーサルマナー協会所属の人材研修講師として活躍し、高齢者や障碍者へのおもてなし指導、知的障碍のある子供を持つ家族への進路指導講義などを行う。平成26年世界的に有名なスピーチイベント「TEDx Kobe@Youth」のスピーカーに選ばれる。

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