齋藤武夫氏が実践する、子供たちが輝く歴史の授業

歴史教育の偏向と教育現場で戦い、教壇を去ったいまも後進育成のために講座を開き、長年培ってきた歴史授業を伝授している齋藤武夫さん。その目から鱗の教育事業の実践例をお話しいただきました。

日本人は皆遠い親戚

(齋藤)

「命のバトン」は見方によっては道徳としても教えられる内容ですから、これ以降が本当の歴史の授業です。

「先祖のバトンタッチのおかげで日本という国があり、日本人として私たちがここにいるわけだけど、実は日本は世界でも特別な国なんだ。では、どれだけすごい国かということを説明するね」

日本列島が誕生したのは一万数千年前。悠久の時間をかけて日本という国や文化が少しずつ形づくられていきます。しかし、長い歴史の中で日本人がどこかに移動したことや、他の民族に押し寄せられて征服されたことは今日まで1度もありません。

大東亜戦争後、7年間アメリカに占領された時が唯一の例外です。私は征服と滅亡の繰り返しだった世界の歴史について話し、日本だけが誕生から今日まで単一の国だったこと、私たちの背後の無数の先祖がこの日本列島のどこかで生きていた事実を強調します。

「すげぇ! 日本は世界最古の国だったんだ」

子供たちからはそんな驚きの声が聞こえます。

「さぁ、いま教わったことに『国づくりのバトン』と名前をつけます。日本というのは、大昔から大和民族がコツコツと築き上げてきた国だ。君たちのご先祖様の国づくりのバトンパスによって皆でつくり、守ってきた国なんだよ」

「歴史とはたくさんのご先祖様たちによる国づくりの歩み、私の命がいまここまで歩いてきた長い物語」。すこし気取った表現をすれば、そんな言い方もできると思います。

さて、ここまで話すと、1つの疑問にぶつかります。ご先祖様の数は遡るほど増えていくのに、日本の人口の推移はそれとは真逆だということです。日本の人口が1億人を超えたのは僅か3、40年前の話です。この矛盾をどのように解決すればいいのでしょうか。

実は私も長い間、それが疑問でした。ある大学の数学の先生に聞いたところ「答えは1つしかない。私たちの先祖はどこかで重なり合っていたんだよ」という返事をいただきました。いってみれば日本人は皆、遠い親戚同士だったということなのです。

ここでまた、「国づくりのバトンとは即ち私たちの親戚の物語」という答えが導き出されます。

「織田信長も徳川家康も、君たちとどこかで繋がっているのかもしれないよ」

歴史を身近に感じ、子供たちの目がキラリと輝く瞬間です。

聖徳太子の外交力

(齋藤)

具体的な歴史の題材として、ここでは誰にでも身近な聖徳太子を取り上げてみることにします。

太子が生きた6世紀、国外ではある大きな動きがありました。200年以上、分裂と闘争を重ねてきた国が隋という1つの国にまとまるのです。まとまるのはいいことのようですが、困った問題も起きます。敵を外に求めるようになることです。当然、日本もそのターゲットでした。つまり、摂政である聖徳太子にとって、外交は最大の課題となったのです。

太子は遣隋使の小野妹子に推古天皇の手紙を託します。煬帝宛てのその手紙には、「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」と書かれていました。私は日本の歴史史料の中で最も重要な1つであるこの手紙を何度も大声で読ませた後、次のように話します。

「この手紙を受け取った煬帝は『東の海に浮かぶちっぽけな国の王よ。私の家来なのに、何という無礼な言葉か』と真っ赤になって怒ります。さて、問題です。煬帝は先ほどの手紙のどの部分に怒ったのでしょうか」

子供たちは一所懸命に考えます。1番多い答えは「日出る処、日没する処」の箇所について「これではまるで日本が発展し、隋が没落していくみたいだから」というものです。

ところが、少し前の邪馬台国の授業内容を覚えている子供たちは、また別の見方をします。

「これは天子という言葉に怒ったんだ。日本の国の天皇を天子と言ったのが気にくわなかったんだ」

卑弥呼は魏の国から親魏倭王の名を与えられました。これは卑弥呼が魏の配下にある倭国を治める王になる、つまり魏の国の家来になる、という意味なのです。朝鮮半島の高句麗王、百済王なども同様です。

一方の天子とは、天から世界の政治を任される皇帝の意味で、中国の王朝は「天子」と「王」を明確に区別していました。子供たちが言った通り、煬帝はこの「天子」という表現に対して激怒したのです。ちなみに「日出る処、日没する処」は東西の位置関係を示す言葉として当時からよく使われており、決して失礼な表現ではありません。

子供たちはこの手紙を読み解くことで、日本の先人たちが皇帝の家来である倭王となることを拒み、どこまでも対等に付き合おうとしたことを理解していきます。

(本記事は月刊『致知』2019年6月号「看脚下」から一部抜粋・編集したものです。あなたの人生、経営・仕事の糧になる教え、ヒントが見つかる月刊『致知』の詳細・購読はこちら

◇齋藤武夫(さいとう・たけお)

昭和24年埼玉県生まれ。立命館大学文学部中退。書店員などを経て59年埼玉県の小学校教師となる。退職後は浦和実業学園中学校で教鞭を執る。現在、授業づくりJAPANさいたま代表、歴史授業研究・大宮教育サークル顧問。独自のテキストをもとに教師に歴史授業を教える講座を各地で行っている。著書に『学校でまなびたい歴史』(産経新聞ニュースサービス)など。

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