「私があんたのところの重役になろう」 グリコと松下電器、友情をこえた創業者同志の絆

月刊『致知』には毎号、心の琴線に触れる記事が掲載されています。過去の記事の中から、掲載当時、大きな感動を呼んだエッセイ「グリコと松下、友情をこえた創業者同志の絆」をご紹介いたします。

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松下幸之助との出会い

江崎グリコの創業者・江崎利一さんは、松下幸之助さんよりちょうど一まわり上の同じ午年(うまどし)である。

昭和10年頃、大阪に出てきてグリコを売り出すとともに、広告を朝日新聞と毎日新聞に出した。そうしたら朝日の広告部が、熱海にスポンサーを招待したことがある。そのときに、たまたま同席したのが松下さんであった。

お互いに業種は違っても、事業に対する信念、精神には相通ずるものが多く、どちらも裸一貫から事業を興した境遇が似ているせいか、非常に尊敬の念を覚え、かつ意気投合したものである。そして時折会って話を交わそうではないかということになった。

2人とも一文無しから商売をはじめたのだから「文なし会」といつとはなしに名付けられた。
江崎さんは戦後間もなく長男をなくした。あとを継がせるべく専務として育成中のことで、江崎さんは失望落胆した。すでに70歳近くになり、孫はまだ幼い。
親類の人たちは

「もうこれ以上、事業は広めるべきではない。大阪だけでこぢんまり縮小した方がいい」
 
と忠告し、そうするようにすすめた。どうしたものだろう、江崎さんは決断がしにくいので松下さんに相談した。

「私があんたのところの重役になろう」

このくだりは江崎さんの『商道ひとすじの記』に感動的に書かれている。

「すると松下さんは
『江崎さん、今さら何をいうのか。ここまで営々と築きあげたグリコはもうあんた一人のものではない。日本のグリコだ。
 
やりなさい。親類がどういおうとやりなさい。あんたがこれだけ広げたことはたいしたことだ。もう息子さんのことでくよくよしなさんな。
よし私があんたのところの重役になろう。なんでも相談に乗ろう。
 
あんたが死んで、あとうまくいかんようやったら、私がうちの若い者を引っぱってきて応援する。
 
お孫さんのことは引き受けたから、あんたはいままで通り積極的にやってほしい。いやいっしょにやろうじゃないですか』
 
そういって力強く励まし、私の肩をゆさぶってくれた。さすがの私も、このときばかりはなすすべもなく、ただ男泣きに泣いた。
松下さんの友情はほんとうにうれしかった。持つべきものはほんとうの友人だということを、しみじみ感じた。
感動にうちふるえながら私は松下さんのいうように長男の死を乗り越え、事業の鬼になることを心に誓ったのである」

松下さんは、江崎さんの孫の勝久さん(現江崎グリコ社長)が大学を卒業したとき、

「はじめから江崎グリコに入れると甘やかされるから一人前になるまでうちで鍛えてやる」
 
と、3年間預かって鍛えた。
また江崎グリコが株を公開すると、さっそく株をもって、死ぬまで重役として応援しつづけた。

江崎さんと松下さんの交友は深く、友情というより、切っても切れぬ人間的なつながりになっていた。
松下さんを盟友にもったことは、私の誇りであり、心の財産だと、話されたこともある。

たかが子供の十銭菓子からグリコ王国を、電気ソケットから世界一の家電王国を築いて悔いなき生涯を終えたふたりは今、あの世で熱海の湯につかりながら、あれこれ話がはずんでいることだろう。おふたりに受けた有形無形の深い感銘が温かく甦ってくる。


(本記事は月刊『致知』1993年11月号 連載「致知随想」から抜粋・編集したものです)

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著者 ◇ 城島慶次郎(じょうしま・けいじろう)

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