日本近代医学の祖・北里柴三郎が歩んだ〝熱と誠〟の人生

日本の近代医療の礎を築き、世界の医学史にその名を残す細菌学者・北里柴三郎。その旺盛なバイタリティの源泉はどこにあったのでしょうか。医道の追求に生涯を賭し、国家発展のために尽くした〝熱と誠〟の人生を、曾孫の北里英郎氏に語っていただきました。(肖像写真=国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

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熱と誠があれば何事でも達成する

1891(明治24)年、ベルリン滞在中の北里柴三郎を、一人の青年が訪ねてきた。ストラスブルグ大学留学中の医化学者で、後に京都帝国大学総長となる荒木寅三郎(あらき・とらさぶろう)である。

当時38歳だった柴三郎は、こんな言葉で彼を勇気づけた。

「君、人に熱と誠があれば、何事でも達成するよ。

 よく世の中が行き詰まったと言う人があるが、これは大いなる誤解である。
 世の中は決して行き詰まらぬ。

 もし行き詰まったものがあるならば、これは熱と誠がないからである。
 つまり行き詰まりは本人自身で、世の中は決して行き詰まるものではない。
 熱と誠とをもって十分に学術を研究したまえ」

寅三郎はこの言葉を心に深くとどめ,一心に研究に打ち込んだ。結果、恩師であるホッペザイレル教授の信用をますます得て、医化学者として大成したという。

当時の日本は開国からまだ日が浅く、近代医学においては欧米諸国の後塵を拝していた。そんな中、様々な障壁と闘いながらも自ら道を切り拓いてきた柴三郎が、その体験に基づき、伝えようとした一つの信念だったのだろう。

実学の精神と後進の育成

私は柴三郎の曾孫に当たるが、柴三郎は父の生まれる前年に亡くなっているため、当然本人に会ったことはない。現在は曾祖父を学祖とする北里大学で教授職にあるが、本学は同族経営ではなく、今日まで一介の教員として職務に精励してきたことを初めにお断りしておきたい。

北里柴三郎は「日本の近代医学の父」といわれるが、研究面における最大の業績は、世界の誰も成し得なかった破傷風菌の純粋培養に成功したことだろう。

柴三郎が33歳でドイツ留学した1886(明治19)年当時、破傷風に罹患した人の致死率は極めて高く、人々から恐れられていた。しかし、その菌を培養するのは至難の業で、研究先進国であるドイツでも不可能とされていた。

だがその難業を、医学後進国の日本から来た留学生の柴三郎が、自らの知識や技術、根気などの能力を総動員し、僅かな年月で成し遂げてしまったのである。
 
しかし柴三郎の真骨頂は、そこで研究を終わらせなかった点にこそある。翌年、柴三郎は、破傷風の原因が菌から産生される毒素にあり、それに対して我われ人間は免疫体(抗毒素)を体内につくることを発見した。そしてこの原理を元に血清療法を確立して実際の予防や治療へと応用し、多くの人々の命を救った。

柴三郎の根底にあるのは、この「実学」の精神である。幼少時より儒学に接していた柴三郎は、肥後の藩校・時習館、また熊本医学校に入り、横井小楠を祖とする実学の精神を学んだ。

柴三郎が終生一貫して学門の実用性・効用性を説いたのもこの影響が大きい。また、四書五経などの書物から「忠恕」の精神を学び、自分の良心に忠実かつ他人の身になって物事を考える素地がこの頃養われていったと思われる。

ドイツ留学時代に門を叩いた恩師のローベルト・コッホも、柴三郎に次のように語った。

「学問は高尚なる事を研究するのみにて、独り自らを楽しむは本意にあらず。これを実地に応用し人類に福祉を与えてこそ学者の本分を尽くすものにして、真にこれ学者の任務なり」

いかに独創的で、先端的な研究であっても、実地応用に還元されなければ、単なる自己満足でしかない。それは研究者・柴三郎の生き方を貫いた信念であったと言えよう。

もう一つ特筆すべきなのは、柴三郎が自分の得た研究成果を弟子たちに必ずフィードバックしている点である。自身が研究を主導し、弟子が書いた論文にも自分の名を一切入れようとはせず、研究の手柄はすべて譲って本人は恬然としている。

赤痢菌の発見で知られる志賀潔、黄熱病の研究で有名な野口英世など、多くの世界的な研究者を輩出し、自身の座右の銘のごとく「終始一貫」日本の予防医学や公衆衛生の改善、発展に尽くした生涯だった。

大業を成さんとするならその基礎を固めるべし

柴三郎は東大医学部在学中の25歳の時、弟妹に送った書簡で次のように述べている。

「いやしくも男子と生まれたからには、普段から大いに愛国心を養い、わが日本帝国が世界万国と肩を並べ、秀でることはあっても決して遅れを取らない、不羈独立(ふきどくりつ)の国にすることは、今に生きる男子としてお互いに志す所であり、一日も忘れてはならないことです。

この大業を成さんとするなら、各人がそのための基礎を固めるべきであり、その基礎とは自分自身の勉強です。どんなに志があっても学力がなければ他人はその人を信頼せず、他人の信が無い人が独りで国家の大益となる業を起こそうとしてもまず不可能です。天下のことは大勢の人々と共に成すのが最善です」

また、先述した「医道論」の原稿の最後は、柴三郎自身による次の漢詩で締め括られている。

 早慧何須俊髦
 晩成只合学賢豪
 君看門前沼濱水
 去為滄溟万里涛

(幼児から賢いからといって、どうして立派な人物になれようか。晩成を期して、ともに、賢者豪者学ぶのみ。君には見えないか、門前の沼や浜の水も、やがて大海原の万里の波濤となるのを)

明治期、志ある若者たちが祖国に貢献することを夢見て懸命に努力し、日本の国は輝いていった。柴三郎が荒木寅三郎を「熱と誠があれば何事でも達成する」と励ましたように、一つの明かりを灯そうとした人たちが集まり、日本全体を照らし、国が輝き日本が開花したのではないか。

いまこそ日本人は、柴三郎ら明治期の先人たちが灯した「一灯照隅」の生き方を見つめ直し、もう一度国を輝かす気概を持つことが必要ではないか。


(本記事は月刊『致知』2013年6月号 特集「一灯照隅」より一部を抜粋・編集したものです)

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◇北里柴三郎(きたさと・しばさぶろう)
1853~1931年。肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現在の熊本県阿蘇郡小国町)に生まれる。細菌学の導入、知識・技術の普及、伝染病対策に貢献した日本における細菌学界の草分け。明治16年東京大学医学部卒業、内務省衛生局入局。19年ドイツに派遣され、コッホのもとで細菌学を学び、破傷風菌について優れた業績を挙げた。25年帰国、福沢諭吉ら民間有志の援助により伝染病研究所設立。27年香港でペスト菌を発見。大正3年北里研究所創設。6年慶應義塾大学医学科長就任、医学部を創設。12年より日本医師会初代会長。

◇北里英郎(きたさと・ひでろう)
昭和32年東京都生まれ。56年慶應義塾大学工学部応用化学科卒業。58年北里大学大学院衛生学研究科修士課程修了、62年慶應義塾大学大学院医学研究科博士課程修了。慶應義塾大学医学部助手、癌免疫研究所・ポスドク(仏国、パリ郊外)、独逸癌センター・ポスドク(独逸、ハイデルベルグ)、輸血・血液学研究所・主任研究員(チェコ共和国、プラハ)、聖マリアンナ医科大学講師、北里大学医学部・大学院医療系研究科講師を経て北里大学医療衛生学部・大学院医療系研究科教授。

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