「人生で一番の屈辱の日」——元島民が語る北方領土返還への想い

昭和20年の敗戦後、突如としてソ連により不法占拠された我が国固有の領土である北方領土。度重なる返還交渉にもかかわらず、70年以上を経たいまなお、返還の目途は立ちません。長年北方領土返還運動に携わり、「北方領土の語り部」として全国各地で講演活動に取り組んでこられた北方領土元島民の高岡唯一さんに、いまも戻れぬ故郷への想いを語っていただきました。

鮮やかに蘇る我が故郷、多楽島の日々

私は昭和20年の敗戦を回想する時、いつも『故郷(ふるさと)』という叙情歌を歌います。

「兎追ひし/彼の山/小鮒釣りし/彼の川/夢は今も巡りて/忘れ難き/故郷……」。

そうすると、終戦後に旧ソ連に不法占拠され、いまなお自由に立ち入ることができない我が故郷、歯舞群島・多楽島での楽しかった日々が、昨日のことのように鮮やかに目の前に蘇ってくるのです。

歯舞群島は5つの島からなっており、その1つが多楽島で、面積は約10平方キロメートル。昭和20年当時には230戸、1400人の島民が生活していました。髙岡家はその多楽島で代々昆布の採集生産業を営んでいて、当時10歳だった私も物心ついた頃から毎日のように両親の手伝いをしていました。

仕事を終えると、草原の中で乗馬して駆け出し、振り落とされても怪我をせず戯れたり、海に行って石を蹴ったりして楽しく遊びました。多楽島での日々は、まさに『故郷』の歌そのままでした。

しかし、そのような日々も長くは続きませんでした。昭和20年7月14日、海を隔てて40数キロ離れた根室市がアメリカ軍の空襲に見舞われ、もくもく立ち上る黒煙が多楽島から見えたのです。8月になると、「日本は戦争に負ける」との情報が伝わってきたのですが、日本軍の有利な情報を信じていたので、それを聞いた父や島民の驚きと落胆は相当なものでした。

いまなお脳裏に焼きつく人生で一番の屈辱

敗戦後、両親も島民たちも仕事が手に着かない様子でしたが、そのうちに、「外国の軍隊がやって来るらしい」という噂が流れ始めました。それがどこの国の軍隊なのか、いつ来るのか、島民の間に不安が広がっていきました。ただ、島の大人たちには、来るとしても戦争をしていたアメリカ軍だろうという思いはあったようです。

しかし、実際にやって来たのはソ連軍でした。後に調べて分かったことですが、当時ソ連はドイツと戦争状態にあり、日本とは日ソ中立条約を結んでいました。しかし、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦、終戦後にカムチャッカ半島から南下し、占守島から得撫島に至る島々を不法占拠。8月28日には樺太(現サハリン)からも軍を進め、現在北方領土と呼ばれる択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島を次々と不法占拠していったのです。

ソ連軍が多楽島に上陸してきたのは9月4日のことでした。その日、私は朝食の後、家の周りで遊んでいたのですが、馬に跨がった2人の男が数100メートル離れた隣家に入っていくのを目にしたのです。

近くで作業していた父にそのことを知らせると、父は何かを感じ取ったかのように、足早に家に戻っていき、居間の炉縁に座り身構え、母はそんな父の隣に座ってじっとしています。兄や2人の姉も作業場の筵の中に隠れました。まだ10歳だった私には、これから何が起ころうとしているのか知る由もなく、再び外で遊び始めたのですが、今度は2人の男が我が家に向かってくる姿が見えました。

そのことを知らせにいくと、父の表情はさらに強張り、母は体の震えが止まらないようでした。そして、馬の足音が我が家の前で止まったかと思うと、玄関戸をがらりと開け、手に拳銃を構えた大柄のソ連兵が大声を張り上げながら土足で上がり込んで来たのです。

驚いた私は、咄嗟に母の背に回って肩越しに一部始終を見ていたのですが、飾りのついた仏壇が目についたのか、ソ連兵は真っ先に仏間へと向かい、拳銃を振り回して仏壇を攪乱し、天皇陛下、先祖の写真や位牌などが部屋中に散乱しました。

父は「この野郎」という表情で黙ってソ連兵の行動を睨みつけており、母の震えが伝わってきます。最後は父、母、私に拳銃を突きつけ罵声を発したのですが、それはまさに強者の威嚇であり、敗戦国に対する行動でした。

幸い私たちに危害を加えることなく去って行きましたが、ソ連兵が土足で家中を歩き回っている光景はいまなお脳裏に焼きついており、人生で一番の〝屈辱〟です。

その数日後、私たち一家は、所有していた自家用動力船でソ連占領下の多楽島から逃げ出すことを決断します。周囲を巡回するソ連兵に見つからないよう、父は雨が降り、海が荒れている日の真夜中を選び、船を出しました。当時は「すぐに帰って来られるだろう」との思いがあり、ほとんどの家財道具を家に残しての脱出でした。

故郷を思い、北方領土返還運動へ

いつ故郷へ戻れるか目途が立たない中、不法占拠された北方領土を取り戻そうと、昭和20年12月、当時の安藤石典根室町長を中心に返還要求の声が上がり始めます。そして、安藤町長は上京して連合国軍最高司令官マッカーサー元帥に対し北方領土返還の陳情を行います。これが、現在に至る北方領土返還運動の始まりでした。

といっても、私たち一家は根室の地で日々生きていくのが精いっぱいで、父も母も返還運動に携わる余裕はありません。私も両親の苦労する背中を見ながら、根室の中学・高校で一所懸命学び、「漁業に携わる仕事がしたい」と、卒業後は職を求めて知床半島で有名な羅臼町に赴きました。そこで働き始めて5年ほど経った頃に出逢ったのが国後島の小学校校長だった村田吾一さんと、色丹島の役場の助役だった谷内田進さんです。この出逢いが、私が返還運動に携わっていくきっかけとなりました。

お2人は、私が多楽島から引き揚げてきた青年だと分かると、「あなたのような若者が返還運動をしなければ、国は動かないよ」と声を掛けてくださり、私もまた、お二人の指導のもと、日本史やソ連が不法占拠した経緯などを熱心に勉強するようになったのでした。
 そして、60歳を過ぎてからは〝北方領土の語り部〟として、全国各地で講演活動にも尽力してきました。奪われた故郷を取り戻したい、その一心で……。

不法占拠から70余年いまだ戻らぬ我が故郷

ソ連兵が我が家に土足で上がり込んできた屈辱の日から、今年(平成28年)で71年。

ソ連による不法占拠時、17,000人余りいた北方領土の全島民のうち、既に10,000人以上の方々が再び故郷の地に戻ることなく、無念の思いでこの世を去っていかれました。

長年、返還運動に携わってきた私自身も、先輩方に対して申し訳ない思いが込み上げてきます。

私も今年で81歳になりました。当時を知るご存命の元島民の方々も、私と同じくらいの年齢です。北方領土が返還されることはその海域も我が領海となることを意味します。もっと多くの方が北方領土問題に関心を持っていただき、また元島民がいまなお返還を求め頑張っていることを知ってほしい。国民が返還への意志を持たなければ政治も動かないのです。

少年時代に過ごした故郷への思いは決して消えることはありません。これからも北方領土の語り部として、命が続く限り、その思いを次世代に語り伝え、返還の願いを託していきたいと思います。

(本記事は月刊『致知』2016年8月号 特集「思いを伝承する」から一部抜粋・編集したものです。いま求められるのは「人間力」――人生や仕事、人材育成のヒントが満載!月刊『致知』の詳細・ご購読はこちら


◇高岡唯一(たかおか・ただいち)

昭和10年歯舞群島・多楽島生まれ。20年終戦後旧ソ連による北方領土不法占拠が行われ、一家で多楽島を脱出。以後、北海道根室の地で育つ。羅臼町で漁業関係の職に就いた後、「社団法人千島歯舞諸島居住者連盟」(現在は公益社団法人)に加盟し、北方領土返還運動に携わる。現在、同連盟援護問題専門委員会委員長などを務め、「北方領土の語り部」として全国各地で講演活動などを精力的に行っている。

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