「君は歴史が自分の外側にあると考えますか」——小林秀雄の〝個人授業〟

近代日本を代表する知識人、文芸評論家であり、いまなおその著作や教えが多くの人々に影響を与え続けている小林秀雄。中村学園大学教授の占部賢志さんもまた若い頃から小林秀雄に大きな影響を受けた一人です。占部さんに小林秀雄の謦咳に初めて接した時のエピソードを教えていただきました。

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歴史を知るとは自己を知ること

〈占部〉
(小林秀雄の)講演が終了したのは夜の9時過ぎ、筆者は講演担当者に小林さんの宿泊先を密かに聞き出し、現地で落ち合った友人を誘ってホテルに向かうことにしたのです。小林さんに何としても伺いたいことがあったからです。

ホテルに着いてみると小林さん一行は戻ってはいません。何でも延岡名物の鮎を肴に一杯やっているのだそうです。一時間半程待った頃でした。玄関前に数台の車が横付けされ、名士の一群がどっと入ってきました。

小柄ながら風格のある小林さんは一目で分かります。よし、今しかない、そう思うや中に割って入り、小林さんの行く手を遮ったのです。周囲は何事かと立ち止まりました。まごまごしてはいられない。蛮勇を奮い起こしてこう切り出したのです。

「先生、非礼であることは承知の上ですが、どうしても質問したいことがあって、お待ちしておりました」と。

一蹴されると思いきや、小林さんは筆者の顔をじっと見つめられる。そして、「いいえ、構いませんよ。何でしょうか」と応じられたのです。

疲れているから御免蒙るよと言われて当然にも拘らず、相手をして下さった。これが筆者の生涯を決めた瞬間でした。

質問の趣旨はこうでした。「先生は、歴史を知るとは自己を知ることだとおっしゃっていますね。この意味が今一つ分からないのです。どうして自己を知ることになるのでしょうか」

小林さんは「歴史についてねえ、それは大変難しいことです……」と呟かれて、暫く考え込まれている様子でした。

すると、突然顔を上げられて「君は歴史が自分の外側にあると考えますか」と問われたのです。返答に窮していると、あとは速射砲を浴びているような事態となっていきました。

「君は記憶を持っているだろ。その記憶は君と別ものではないでしょう。一秒前の君と今の君と別人ではないじゃないか。

君の過去の何時をとり出してみても別人ではあり得ない。君の記憶はすべて君自身なのだ。

君が、今ここにいるのは君に記憶があるからなんだ。記憶がなければ君は存在しませんよ!

こちらが言葉を挟む余地などありません。ないというより、その迫力の前に棒立ちの状態でした。酒の匂いがあたりに漂い、顔面には小林さんの唾が飛んで来ます。

「あのね、君のこの身体は誰が生んでくれたものですか。君のおっかさんだろう」。

そう言いながら小林さんは、筆者の両腕を取られるのです。「はい、そうです」と応じるのが精一杯でした。

「じゃあ、この君を生んでくれたおっかさんのことを考えてみたまえ。おっかさんのすべては君のこの身体の内を流れているんだぞ。そうだろ。

そうすると、君がおっかさんを大事にするってことは、君自身を大事にするってことにもなるじゃないか

そう切々と諭される。ただただうなずくばかりでした。

極めて卑近な親子の絆を例に挙げ、歴史に対する感覚を説かれる言葉を拝しながら、講演の枕として話されたエピソードが頭をよぎったのを覚えています。

「僕は大学時代から生活のために物を書いて売っていたんです。大学なんて勿論出る気はなかった。文学に大学は要りませんから。

ただ僕は、親父が早く死んだためおふくろに育てられたんです。そのおふくろがどうにかして大学は出て欲しいと願っていたのです。ですから僕はおふくろのために大学を卒業したんです。そういうおふくろの願いを無視することは出来なかった……」

聴衆はどっと沸いたが、とても笑う気にはなれません。むしろ、ベルグソンを論じ、挙句の果てに筆を折ってしまわれた「感想」と題する『新潮』連載の冒頭のくだりが浮かんで来て、胸が熱くなりました。

終戦直後のこと、母の通夜を執り行っていた小林さんは切れかかった蝋燭を買いに出ます。夕暮れの鎌倉路を歩いていると、目の前をゆっくりと大ぶりの蛍が飛んでいく。

この時小林さんは「おっかさんは今は、蛍になっている」と確信する。小林作品に親しんだ者なら誰しも熟知している場面です。

「君の肩には千年の歴史の重みがかかっている」

速射砲のごとき教えはさらに続きました。小林さんはぐっと歩み寄られて、こう言われたのです。

「君のこの肩にはおっかさんのすべてのものがかかっているんだ。じゃあ、もっと昔のことを考えてみたまえ。1000年前のことだって同じだ。君のこの肩には日本の千年の歴史の重みがかかっているんだよ」

そう言いながら小林さんは幾度も筆者の肩を叩かれ、しみじみとした声で含めるように諭されたのです。

「いいかい、君の身体には祖先の血が流れているんだよ。それが歴史というものなんだ。そこをよくよく考えなくちゃいけない。

誰でも宿命をもってこの世に生まれてくるんです。そのことを自覚しなければだめだ。そして、生きて来た責任を果たさなければならないんだよ」

凡そ30分に及ぶ深更の「個人授業」はこうして幕切れとなったのでした。


(本記事は月刊『致知』2012年5月号より一部を抜粋・編集したものです)

◇占部賢志(うらべ・けんし)
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昭和25年福岡県生まれ。九州大学大学院博士課程修了。福岡県の県立高校教諭を経て、現在、中村学園大学教授。傍ら、NPO法人「師範塾」塾長、NPO法人アジア太平洋こども会議・イン福岡「日本のこども大使育成塾」塾長を務める。著書に『語り継ぎたい美しい日本人の物語』(致知出版社)などがある。

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