高弟・伊與田覺が語る安岡正篤師の風韻

昭和期の政治リーダーたちが安岡正篤先生の薫陶を受けたことはよく知られていますが、先生のそのお人柄はどのようなものだったのでしょうか。高弟で論語普及会学監を務められた伊與田覺先生が語るエピソードは実に味わい深いものがあります。

清掃員の女性を感化したもの

偉大な人物に接すると、その人が言葉を発する以前に、風貌や雰囲気、何気ない立ち居振る舞いから、理屈抜きに大きな感化を受けることがあります。私の師・安岡正篤先生はまさにそういう方でした。
 
先生の最晩年、昭和58年の話です。病気により全国師友協会会長を退任された先生は、実兄の堀田真快大僧正が管長を務められていた高野山大本山で静養されていました。しかし、病状は重くなるばかりで、やがて大阪の住友病院に入院し、同年末、ここで息を引き取られます。

住友病院への入院は、安岡門下の一人で当時住友生命の社長だった故新井正明さんのご厚意によるものでしたが、政界人の指南役を務められた先生のこと、入院が世間に知られては騒ぎも大きくなるとの配慮から、手続きや入院は秘密裏に進められました。主治医などごく限られた人を除いては医師も看護婦も、その患者が安岡先生であることを知らなかったのです。
 
ところで、先生が亡くなられてしばらくして、私も、やはり新井さんの紹介でこの病院に入院したことがあります。幸いにして20日ほどで退院しましたが、私は時間があるとベッドの上で正座をしていました。背中に持病のある私は、長時間ベッドに横になることができず、起きて座っていたのです。

そういう様子をたまたま見ていたのでしょう。病院の清掃係の初老の女性がある時私に「いつも正座をされていますね。とても感心して見ていますよ」と話しかけてきました。続けて「この病院の新井理事長と深いご縁のある方だそうですね」と質問してきました。

「ええ。理事長のお父さんの時代から、よく存じ上げていますよ。先生が一緒でしたからね」
「その先生はどなたですか」    
「安岡正篤先生という方です」 
 
すると女性は「陽明学で有名な、あの安岡先生ですか」と、感慨深げな表情で聞き返しました。詳しく聞いてみると、先生が入院中、部屋の清掃を任されたのが自分だったというのです。もちろん、この女性も、当時その患者が誰なのかは一切聞かされてはいませんでした。そして次のような先生の思い出を話してくれました。
 
最初に部屋に入った途端、ああ、この方は普通の人ではないと気づきました。それから何度も先生のお部屋に足を運びましたが、いつも手を合わせて拝みたくなるような衝動にかられました。

ある時、先生から「あなた、生活はどうですか」と声をかけていただいたので「お給料が少ないし、なかなか大変です」とお答えしたところ、「あなたの相はなかなかよろしい。晩年になるほど、よくなっていく。だから挫けずに、しっかりおやりなさい」と励ましてくださったのです。そして先生は、丸を書いた紙を私にくださいました。以来、私はその紙を肌身離さずに持ち歩いています。
 
先生が亡くなられて初めて、あの方が有名な安岡先生だと知って驚きました。いまでは自分の孫たちに「しっかり勉強して、ああいう立派な方になりなさい」と話してあげています。

彼女の心を大きく揺さぶったものは何だったのでしょうか。先生の知名度でも豊富な古典の知識でもありません。それは先生の何気ない仕草や表情、言葉から溢れる風格、風韻だったのです。
実際、そのお声にしても、われわれが一度聞いて忘れられないだけのものをお持ちでした。「雲遮月」という言葉があります。皓々とした満月もいいけれども、少しの薄雲は満月の美しさをさらに引き立ててくれる。安岡先生のお声には、例えばそのような魅力がありました。

安岡正篤師

孔子や中江藤樹に人々は魅せられた

『論語』の学而篇には孔子の風格の高さを思わせる次のような話があります。

子禽子貢に問うて曰はく、「夫子の是の邦に至るや、必ず其の政を聞く。之を求むるか、抑之を与ふるか」。子貢曰はく、「夫子は温良恭倹譲以て之を得たり。夫子の之を求むるや、其れ諸れ人の之を求むるに異なるか」。

子禽が子貢にこう尋ねた。「孔先生は、どこの国に行かれても必ず政治について聞かれるが、これはご自分から求められたものか、それとも先方から求められたものでしょうか」。子貢はこれに対して「孔先生は、お人柄が穏やかで素直、恭しくて行いに締まりがあり、それに謙虚な方なので、自ずから先方から求められたのである。従って先生の求め方は、一般の人の求め方と大いに違うように思う」と。
 
人々は孔子に会った途端にその人柄に魅せられ、思わず質問したくなるというのです。
 
日本でいえば、中江藤樹がそのような風格の持ち主だったといわれます。藤樹は江戸時代初期の近江国(滋賀県)の儒学者ですが、この時代、数多くの儒学者が生まれる中で、「聖人」という呼称を持つ数少ない一人です。
 
文字も知らない農民たちが藤樹の周りに集まって教えを請い、次々に感化されたという話一つを取り上げただけでも藤樹が聖人と親しまれた理由がよく分かります。藤樹は学問を切り売りする他の儒学者とは明らかに違っていたのです。

(本記事は月刊『致知』2005年2月号 特集「創業の精神」より「『小学』に学ぶ」から一部抜粋・編集したものです。『致知』には人間力・仕事力を高める記事が満載!詳しくはこちら

◇伊與田覺(いよた・さとる)
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大正5年高知県生まれ。学生時代から安岡正篤氏に師事。昭和15年青少年の学塾・有源舎発足。21年太平思想研究所を設立。28年大学生の精神道場有源学院を創立。32年関西師友協会設立に参与し理事・事務局長に就任。その教学道場として44年には成人教学研修所の設立に携わり、常務理事、所長に就任。62年論語普及会を設立し、学監として論語精神の昂揚に尽力する。平成28年逝去。

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