松下幸之助が社員に語り続けた「人生・仕事を発展させる極意」

経営の神様・松下幸之助。子供の頃は赤貧、兄弟との死別、病弱、小学校中退……。起業家として成功を収めてからも、敗戦、財閥指定、公職追放、借金地獄……。幾多の過酷な試練にも翻弄されることなく、一代で松下電器を世界的企業へと築き上げた生き方と残した言葉には、人生や仕事を発展させる極意が詰まっています。

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マイナスをプラスに変える生き方

松下幸之助は和歌山の素封家に生まれました。何不自由なく育てられたものの、父親が米相場に手を出して破産。尋常小学校の卒業を待たず、10歳で船場に丁稚奉公に入ります。

きょうだいは8人いましたが、26歳までに肉親をすべて失い、自らも22歳の時にカタル性肺炎に罹りました。その時の幸之助の決意には目を見張るものがあります。

「どうせ死ぬのであれば、養生して寝ながら死ぬよりも働けるだけ働いて死ぬほうがいい。結核にかかった以上、死ぬのは避けられない。兄2人も結核で死んだのだから、自分もジタバタしてもダメだ……。しかし、ただ寝て死を待つというのは面白くない。働ける間は大いに働こう」

この決意、この機の活かし方こそ、幸之助を後に大成させる礎になったものに違いありません。

幸之助にはもう1つ、大きな転機があります。昭和20年、敗戦の年。松下電器は戦時中に軍の仕事に関わったため、GHQから財閥指定を受けて一切の財産を凍結され、幸之助も公職追放の身となりました。

番頭の高橋荒太郎はGHQに抗議するため、飛行機も新幹線もない時代に100回近くも大阪から上京、粘り強く交渉します。労働組合も社長の公職追放除外を求める嘆願運動を展開、数年後に2つの指定は解除されました。この頃の心境を語った幸之助の言葉があります。

「私は敗戦で一切の財産を凍結された。さらに仕事もないのに1万5千人の従業員を抱え給料を払わなければならなかったりして、日本一の借金王にもなった。人生にはどうにもならないこともある。もう逃げるに逃げられない、死ぬに死ねないということもある」

おそらく同じ頃のことだと思われますが、こういうことも言っています。

「素直になれない。だが素直にならなければ自分は生きていけない」

後年、幸之助は「素直の一段になりましょう」と言い続けましたが、この体験に由来しているのでしょう。死ぬに死ねない、どうしようもない状況、危機の中から、幸之助は人間的な脱皮を遂げたのです。

新人研修で説いた2つの言葉

新卒で入社した松下電器に31年在籍し、松下政経塾の塾頭も務めた上甲晃さんは、松下幸之助に直接教えを請い、薫陶を受けてきた1人です。

上甲さんは月刊『致知』2018年8月号の連載「20代をどう生きるか」の中でこう述べています。

「20代に限らず、私が人生で最も影響を受けたのは、松下幸之助に他ならない」

松下幸之助に出逢ったことで、本当の生き方、社会人生活の基本、考え方の根っこを教えられたといいます。特に忘れられないのが、新入社員研修での訓話。「いまから言う2つのことを守り通したら、松下電器の重役になれる」という前置きをした上で、松下幸之助はこう言ったそうです。

「1つは、いい会社に入ったと思い続けられるかどうかや。もう1つは、社会人になってお金が一番大事と思ったらあかんぞ。もちろんお金も大事やけどな、お金は失くしても取り戻せるんや。しかし、人生にはこれを失うと取り戻すのに大変苦労するものがある。それは信用や。信用を大事にせなあかん」

1つ目の言葉に関して、上甲さんは次のように説明しています。

「誰でも入社したばかりの時はいい会社に入ったと思う。しかし、嫌な上司がいたり、意に沿わない仕事をさせられたり、様々な不遇に遭う。それでもなお、いい会社を選んだと心から思えるかどうかはすごく大事なことだ、と」

さらにこう続けます。

「〝人間、9割は自分ではどうにもならない運命のもとに生きている。その運命を呪ってはいけない。喜んで受け入れる。すると、運がよくなる〟とも教えられた。世に数百万社あるといわれる中で、この会社に入ったというのは、縁や運としか言いようがない。その自分の運命を呪わず、前向きに喜んで受け止めていくと人生は好転する。これは会社のみならず、生まれた国や自分の容姿など、あらゆる境遇に当てはまると学んだ」

別の日の研修では、松下幸之助は「仕事をする上での2つの心構え」を説き、それもまた、上甲さんの社会人生活の基本的な心構えになったといいます。

経営の神様の教えは、業界や業種、世代や立場を超えて通じるものであり、そういう支えとなる言葉を自らの心に刻んでいるか否かが、人生や仕事を発展させていく上で重要になってくるのでしょう。

(※本記事は月刊『致知』2018年2月号特集「活機応変」並びに、2018年8月号連載「20代をどう生きるか」より一部、抜粋したものです。)

☆月刊『致知』/連載「20代をどう生きるか」

≪3つの読みどころ≫

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point1

【松下幸之助が説いた「仕事をする上での2つの心構え」】

――意識は社長、上司は使うもの、とは!?

point2

【日本の企業で初めて完全週休二日制を導入した経緯】

――リーダーとしての決断力、先見の明をどう養うか

point3

【未来を担う若者たちに伝えたいメッセージ】

――大切なのは「〇〇的で、〇〇〇意識を持つ」こと

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◇松下幸之助(まつした・こうのすけ)
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明治27(1894)年、和歌山県に生まれる。9歳で単身大阪に出、火鉢店、自転車店に奉公ののち、大阪電灯(現関西電力)に勤務。大正7(1918)年、23歳で松下電気器具製作所を創業。昭和10年、株式会社組織に改め、松下電器産業に改称。昭和21(1946)年には、「Peace and Happiness through Prosperity=繁栄によって平和と幸福を」のスローガンを掲げてPHP研究所を創設。昭和54(1979)年、21世紀を担う指導者の育成を目的に、松下政経塾を設立。平成元(1989)年に94歳で没。

◇上甲 晃(じょうこう・あきら)
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昭和16年大阪市生まれ。40年京都大学卒業と同時に、松下電器産業(現・パナソニック)入社。広報、電子レンジ販売などを担当し、56年松下政経塾に出向。理事・塾頭、常務理事・副塾長を歴任。平成8年松下電器産業を退職、志ネットワーク社を設立。翌年、青年塾を創設。著書に『志のみ持参』『志を教える』『志を継ぐ』(いずれも致知出版社)など多数。

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