栗城史多はなぜエベレストに挑み続けたのか

登山家・栗城史多さん、35歳。8度目のエベレストへの挑戦で悲劇は起きた。あまりにも突然で、早過ぎる死だった。SNS上でもファンによる追悼投稿が相次いでいる。2012年に重度の凍傷に罹り、右手親指以外の両手9本の指の先を失う逆境に直面しながらも、酸素ボンベなし、シェルパのサポートなしで、エベレスト単独登頂を目指し続けた若き不屈のクライマー。その飽くなき挑戦心の源泉とは何か。そして、いま栗城さんの生き方から学ぶこととは――。

限界というのは自分で勝手に決めつけているもの

――そもそも登山を始められたきっかけは何だったのですか。

(栗城) 

ひと言で言えば、失恋です。私は高校卒業後、劇作家になることを夢見て、北海道の今金町から上京してきました。しかし、すぐに挫折し、しばらくニートの生活を送っていたんです。夢も目標も失った私に残された唯一の希望は、当時付き合っていた彼女だけ。私は彼女と一緒になろうと決心して地元に帰ったんですが、その彼女にも振られてしまいました。

それからは朝から晩まで、部屋に引きこもるようになりました。1日のうちトイレの時以外は寝ているだけ。そんな生活を1週間以上続けていたんです。そうしたらある時、布団に人の形の黒カビが生えてきた。これにはさすがに驚いて、「このままでは人間以下だ。何かやり始めなきゃ」と。

では何をやろうかと考えた時に、彼女が登山をやっていたことを思い出しました。小柄な女性でしたが、本格的な冬山を登っていた。私は、どうして彼女が山に行くのか、彼女が見ていた世界をこの目で見てみたくなったんです。

――それで登山の道に。

(栗城) 

はい。本格的に登山を始めるため、2002年に大学の山岳部に入部しました。まあ、部とはいっても、部員は先輩と私の2人だけでしたが(笑)。

初めのうちは登山が嫌いだったんですが、その先輩が厳しい人で、いったん登り始めたら登頂するまで下山が許されなかった。「登頂癖をつけろ」というのが先輩の口癖で、たとえ熱が38度あろうと、天気が悪かろうと、先輩はどんどん先に行ってしまうんです。

冬山に1人取り残されるわけにはいかないので、とにかく喰らいついていきました。そうやって登っていくうちに、いつの間にか頂上に立っていたんです。

それまでの私は、何か夢を持ったとしても、そこにもう1人の自分がいて、「これは無理だろう」と。そうやって勝手に決めつけて、途中で諦めていました。ところが、冬山では生きて帰るために必死になるしかなかった。私はそこで初めて、限界というのは、本当の限界に達する前に、自分で勝手に決めつけているのだということに気づかされました。

――それから山の魅力に取り憑かれていったのですか。

(栗城) 

そうですね。はじめは北海道の山ばかり登っていましたが、私の胸のうちには、大学生の間に海外の山を登りたいという思いがありました。先輩方は代々、ヒマラヤに行っていたのですが、私はあえて皆が行かない山を登ってみたかったんです。そして2004年、22歳の時に、北米最高峰のマッキンリー(6194メートル)に1人向かうことを決意しました。

――登山を始められて僅か2年で、なぜいきなりマッキンリーに?

(栗城) 

入山料が一番安かったんです(笑)。また、いまは禁止されていますが、当時アラスカの山は、セスナで登山口まで連れて行ってくれて、1人で登ることができた。それでぜひ行ってみたいなと。

当然、周りからは大反対されました。「経験の少ないおまえにはできない」「不可能だ」と。

しかしその時、上京してすぐに挫折した時のことが頭を過ぎったんです。もしここで言われたとおりにやめてしまったら、今後自分は何をやるにも中途半端な人間になってしまう。そう思って、私は過去の自分と決別すべく、山岳部を辞めてマッキンリーに挑みました。そして、初めての海外遠征で、マッキンリーの単独登頂に成功することができたのです。

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誰しもが自分の中のエベレストを登っている

(栗城) 

マッキンリーを登頂してからは、とにかく無我夢中で世界の最高峰を登り続けました。ただ、その中で感じたのは、登山がいかに孤独な世界であるかということでした。頂に立った時の感動や山で得た学びを、帰国後友人に伝えようとしても、全く理解してもらえなかったんです。

――実際に経験した人にしか分からないものだと。

(栗城) 

だからよく登山は観客なきスポーツとか非生産的行為といわれるんですが、やっぱりこの感動を多くの人と共有したい。どうにか伝えられる方法はないかなと思っていた時に、偶然、あるテレビ局から「インターネットの動画配信をやりませんか」というお話をいただいたんです。

2007年、世界第6位の高峰、ヒマラヤのチョ・オユーを登る時でした。ただ、1つ問題があって、番組のタイトルが「ニートのアルピニスト 初めてのヒマラヤ」という名前だったんです(笑)。それで、日本全国のニートや引きこもりの方からたくさんメッセージをいただきました。「おまえには登れない」とか、中には「死んじゃえ」とかですね。そういう悪いメッセージばかり。

――それは酷い……。

(栗城) 

それでも1か月以上かけて登っていきました。しかし、頂上付近で天気が悪くなってガスがかかってしまい、断念せざるを得なかったんです。それで1回、5300メートル地点にあるベースキャンプまで下りていきました。

するとまた、誹謗中傷の嵐です。「ああ、やっぱりダメだった」「夢って叶わないんですね」と。

いったん8000メートルまで行くと、ものすごく体が衰弱するんです。酸素が3分の1なので、気圧も3分の1になり、体の水分がどんどん外に抜けてしまう。そのため脂肪だけでなく筋肉まで落ちて、全然力が入らなくなるんです。

ただ、このまま終わるのはどうしても悔しかった。私は3日だけ休養を取り、再アタックしました。そして、5日間かけて頂上につくことができたんです。

――決死の登頂ですね。

(栗城) 

すると、それを見ていた人たちの言葉が180度変わりました。それもただ、「栗城はすごい」とかではなく、「僕も本当は夢があって、諦めていたけど、もう1回やろうと思いました」とか「私も何か始めようと思いました」と。

――自分のことを語り始めた。

(栗城) 

で、その時に思ったんです。「ああ、自分だけが山に登っているんじゃない。皆それぞれ、見えない山を登っているんだな」って。

講演会をしていても、「この間の試験受かりました」「夢叶えました」と、私のところに報告に来てくれる人が多いんです。先日も、41歳でようやく教員試験に受かって先生になれたという方が報告にきてくださったりしました。その人にとっては教員試験が見えない山であり、エベレストです。

そして、誰しもが自分の中のエベレストを登っているわけです。勿論、中には挫折してしまった人もいるでしょうが、私はそういう人たちと夢を共有して、「自分はできない」「無理だ」と思っている心の壁を取っ払いたい。見えない山に挑戦し、ともに成長していきたい。それが私の目指す登山なんです。

(本記事は『致知』2012年3月号に掲載された栗城史多さんのインタビュー「終わりなき頂上への挑戦」より一部抜粋したものです)

◇編集後記

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入社1年目の時、私自身が初めて月刊『致知』の特集インタビュー取材並びに執筆を担当させていただいたのが栗城さんでした。

酸素ボンベなし、シェルパのサポートなしで、エベレスト単独登頂に挑み続けている同世代の登山家がいる。そのことに深く感銘を受け、すぐ取材依頼をしました。念願叶って、当時恵比寿にあった事務所にお伺いし、対面を果たしたのは2011年12月6日のこと。生涯忘れられない1日です。

「山は登るのではなく、登らせていただくもの」

「いいことに感謝するだけではなく、これから起きるであろう嫌なことや苦しみもすべて受け入れて感謝する」

「苦しみと闘おうとすればするほど、その苦しみは大きくなっていく。苦しみから逃げても、どこまでも追ってくる。だから、苦しみから逃げてはいけない。逃げずに向き合っていくと、最後に苦しみは必ず喜びに変わる」

「生きるとは長く生きるかどうかではなく、何かに一所懸命打ち込んで、そこに向かって命を燃やしていくこと」

「たとえ90歳まで生きたとしても、夢も目標もなく、何にもチャレンジしない人生はつまらない」

「できる、できないと考える前に、まずはやってみること」

「成功の反対は失敗ではなく、本当の失敗とは何もしないこと。挑戦し続けていく先に必ず成功がある」

記事を読み返さずとも、栗城さんからお聴きした数々の言葉が甦ってきます。これらの金言が私の仕事観、人生観に与えた影響は計り知れません。まさに人生の師の1人でした。

いまだに信じ難い気持ちもあり、悲しみとショックは拭えないものの、これから栗城さんの遺志を受け継いで、さらに仕事に邁進し、我が使命を果たしてまいります。

栗城さん、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

◇栗城史多(くりき・のぶかず)

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昭和57年北海道生まれ。大学の山岳部へ入門した2年後の平成16年北米最高峰マッキンリー(6194メートル)の単独登頂に成功。19年世界第6位チョ・オユー(8201メートル)を単独・無酸素登頂し、動画配信による「冒険の共有」を行う。20年世界第8位マナスル(8163メートル)単独・無酸素登頂。21年世界第7位ダウラギリ(8167メートル)単独・無酸素登頂、インターネット生中継に成功。24年には両手、両足、鼻が重度の凍傷になり、右手親指以外の両手9本の指の先を失う逆境に直面しながらも、世界最高峰エベレスト(8848メートル)の秋季単独・無酸素登頂を目指していた。著書に『一歩を越える勇気』(サンマーク出版)『NO LIMIT』(サンクチュアリ出版)『弱者の勇気』(学研マーケティング)がある。

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