箱根駅伝史上最速タイム。東海大学初優勝の原点はここにあった——両角速監督の人間力養成術

正月に行われた第95回東京箱根間往復大学駅伝で大会新記録を樹立し、初の総合優勝を果たした東海大学。同大学を2011年から率いてこられたのが、両角速(もろずみ・はやし)監督です。両角監督には、東海大学の監督就任1年目に『致知』にご登場いただきましたが、無名だった長野県の佐久長聖高校男子駅伝部を全国屈指の強豪校へと導き、実業団で活躍する名選手を数多く育て上げてきたことでも知られています。部員も練習場もないという状況で部を立ち上げ、全国制覇を成し遂げるという快挙を成し遂げた両角速監督の原点ともいえるお話をご紹介します。

選手である前に一人の人間であれ

(記者:長野県の佐久長聖高校男子駅伝部を全国屈指の強豪に育てられた両角監督ですが、今年<※2011年>の4月から東海大学陸上競技部の駅伝監督に就任されたそうですね)

昨年末でしたか、恩師である東海大学の新居利広監督から「後任をお願いできないか」という相談をいただきましてね。佐久長聖の駅伝も軌道に乗っていたし、15年間多くの方に支えていただいたご恩もありましたので、随分と迷いました。いったんはお断りしたのですが、山下泰裕学部長も「我々にとって五輪や箱根駅伝で実績を出せる選手を育てるのはとても大事で、それなしに大学の生き残りはありえない」と言ってくださって、思い切って決断したんです。これからが第二の指導人生だと思っているところです。

 (記者:大学での目下の課題というと)

まずはトレーニング環境をきちんと整備してあげなくてはいけないと考えています。東海大は関東の大学では練習環境に恵まれているほうですが、私はこちらに赴任する条件として、クロスカントリーコースを学内につくってほしいとお願いしたんです。

というのも、私が佐久長聖に着任した当時は、練習できるグラウンドさえなかったものですから近くの荒れ地に自分でクロスカントリーコースをつくったんです。アップダウンがあって足場が悪かったり、左右に体がぶれたりという一見走るのに適さないような環境で練習したことが、結果的に身体能力を高め、六種目の高校記録を塗り替えるなど好成績に繋がりました。その有用性をよく知っていますので、これを大学にも取り入れ、本格的な指導に入りたいと思っています。

(記者:そもそも走ることに興味を持ち始められたのは?)

野県出身の伊藤国光というモスクワ五輪の出場選手をご存じでしょうか。この方が地元・長野県のロードレース大会に出場して優勝されたのは私が小学3年生の時でした。非常に小さな体で必死に走る姿を間近で見ながら、体が小さくて劣等感を覚えていた自分の姿とダブったんですね。「凄いな。小さくても勝てるスポーツがあるんだ」と、とても勇気付けられまして、そこからですね。

それで中学、高校と陸上部に所属してきたわけですが、本当の指導者といえる人に出会えたのは東海大の新居先生だと思います。先生は選手としての我々に付き合う部分と、学生、また一人の人間として付き合う部分をはっきりさせておられて、練習は非常に厳しいのですが、一歩グラウンドを離れるととても面倒見のよい温かい方でした。この頃、先生が示された教えが、私の指導の根幹になっていると言ってもいいと思います。

(記者:一人の人間として選手に接することを大事にしていらっしゃる)

そうですね。学生には選手である前に大学生、大学生である前に人であってほしいと、いつも口を酸っぱくして言っています。これは高校生を指導する時も同じでした。陸上競技の記録とか結果というものは、その世界にいるから通用するものであって、そこを離れたり現役をやめたら何の役にも立たない。むしろ練習を通してどれだけ心身を鍛え、いかに社会に適応できる人間になっていくか。大切なのはそこなんですね。せめて私の教え子たちにはオリンピックで金を取ったとか、箱根で優勝したとか、そういうことで終わってほしくはないと思っています。

来てよかったと思ってもらえる指導を

(記者:佐久長聖高校に着任されたいきさつをお話しください)

 私は大学を出るといくつかの実業団に所属しました。ところがダイエー時代、神戸市の練習場が阪神・淡路大震災で大変な被害を受けたんです。私は海外の大会で優勝し、2年後にはアトランタ五輪も控えて意気揚々としていた頃でしたが、ついにチームの存続すら危ぶまれるようになりました。

ちょうどその頃、佐久高校が佐久長聖高校と校名変更するのに伴い駅伝部を立ち上げるというので、監督就任の要請があったんです。野球と駅伝を強化することで新しい佐久長聖の名を全国に知らしめたいというのが学校側の狙いでした。私自身まだ現役として五輪を目指したいという夢もありましたが、ダイエーの監督の後押しもあって体育教師兼駅伝部監督として赴任しました。

 (記者:もともと陸上競技が活発な学校だったのですか)

当時、陸上競技部で長距離をやっていたのは何人だと思いますか? これがわずか二人。ご存じのように駅伝をやるには最低七人の部員が必要です。最初から「えっ」という感じでしたね。しかも、グラウンドはいつも野球部が使っていて練習場はない。運動公園のような市の施設があるはずだと探してみましたが、それもないんです。部員はいないし練習場もないし、冬場ともなれば雪で練習もままならない。

それに加えて私には理事長から厳しいミッションが与えられていたんです。「五年で都大路(京都で開かれる全国高校駅伝大会)に出てくれ」と。いったいどうしたものかと頭を抱えましたね。

 (記者:活路は見えましたか)

まずは選手がいないことには話にならない。練習場がない、気候がどうのこうのというのは二の次だと。それで学校にお願いして選手の勧誘に回らせてもらうことにしました。学校は長野県の外れに位置して交通の便が悪いために立派な寮がありました。寮があれば全国どこからでも選手を呼べると単純に考えたんです。ところが、そんな名前も聞いたことのない学校に来るような人はいませんよ。県内の中学陸上大会に何度も足を運びましたが、断られて断られて、特に強い選手には見向きもされない。この時ばかりは選手時代以上に根性が試されました。

幸い私は競技力にはまだ自信がありましたので、1年目は「長聖高校教」と書かれたユニホームを着て国体などいろいろな大会に出場し学校名をアピールしました。福岡国際マラソンでは最初の10キロは先頭を走りましたから、テレビでのPR効果も大きかったのではないでしょうか(笑)。

そういう活動をしながら最初の6人が集まってくれたんです。一人は地元の子、あとの五人は親元を離れて寮生活をする決意をしてくれました。多くは中学時代、スキーや卓球など陸上と関係のない運動をしていたのですが、それでも、まったく実績もない、指導歴もないような学校に来てくれたわけですよ。「佐久長聖に来てよかったと思ってもらえる指導をしなきゃ、この子らがかわいそうだ」と、そう心から思いましたね。

監督自ら練習場を整備

(記者:練習場はどうされたのですか)

最初は理事長に何度も掛け合ってマイクロバスを買ってもらいました。いま思えば珍道中みたいですけど、生徒と一緒に遠くの練習場を探し回って皆で一緒に走る。そんな毎日が続きましたね。2年目になると、「都大路」という目標も、私の中ではさほど意識しなくなっていました。結果的に目標が果たせず監督を辞することになっても、なんとか食べていけるだろう。それよりもここに集まった選手に満足してもらうこと、親御さんから預かった大切な子たちと日々真剣に向き合って幸せにしてあげることのほうがずっと大切で、それこそ自分の役割ではないかと、そればかり考えるようになっていったんです。

やめる子は一人もいませんでしたね。魂と魂のぶつかり合いといいますか、毎日練習で向き合っていくことだけが勝負でしたが、嬉しいことにその中で彼らは見る見る実力を付けてくれました。そうやって力がつくと、今度はどうしても専用の練習場が必要になってきます。

 (記者:監督ご自身で練習場をつくられたのですか)

 ええ。たまたま系列の学園の大学の用地が空いているから自由に使っていいという情報が入ったんです。ただ、そこは遺跡の跡地で、深く掘るといろんなものが出てくるし、面積も広いから整地できないと。実際行ってみたら高低差が10メートルほどある土地でした。でも練習場がないよりはましだと思って、クロスカントリーコースとして整備することを思い立ったんです。

 重機を使って一周600メートルの走路をつくり、生徒と一緒に土から石を掘り出し、草刈りをしてなんとか走れるだけのものにしました。いまも油断するとすぐに草ぼうぼうになるし、雨が降れば土が流れてしまう。手入れは欠かせません。だから、クロスカントリーコースができたのは自然な成り行きであって、最初からつくりたくてつくったわけではないんですね。

選手の人間力が勝敗を決める

(記者:しかし、そういう厳しいコースで鍛えたことが後々の飛躍に繋がるのですね)

まったく何が幸福に転じるか分からないものですね。発足から3年後の1998年には県大会で優勝し、「都大路」でいきなり4位に入賞できたわけですから。5年という理事長との約束も結果的に2年縮めることができて、本当に嬉しかった。これも部の礎を築いてくれた部員たちのおかげだと思っています。

佐久長聖は外国人留学生のいないチームですが、全国高校駅伝に98年以来、13年連続出場(12回入賞)し、2008年には初の優勝を飾りました。アンカーの大迫傑がゴールに飛び込んだ時は、最初の苦労した頃の出来事、14年間の思いが一気に込み上げてきて目頭が熱くなりましたね。

 (記者:実力がついた要因については、どのようにお考えですか)

凹凸の激しいコースで走れば確かに足腰の強化になりますし、それが安定した走りに繋がる。標高800メートルのコースでは心肺機能も高まるでしょう。だけど、それだけではないと思いますね。自分たちの練習コースを子供たちと一緒に整備し草取りに汗する、皆で雪かきをする、という活動を通して相当練習にも心がこもってきたと私は感じています。

 (記者:厳しい戦いに勝ち抜くには心の持ちようも大事なのですね)

例えば、練習場の草取りや整地を続けていると、いつしか自分を支えてくれる周囲の人に対する感謝の心が生まれるんです。と同時に、大切なのは自己判断能力です。駅伝は孤独なスポーツですから、自分で考え、走りを調整しなくてはいけません。周りに合わせて動いたり、流れに乗って何も考えずに走っているような選手は、やはり成長が遅いですね。私は基本的な練習計画をつくる以外は生徒に任せてきましたが、それだけに人間力が勝敗を左右するんです。

 (記者:子供たちの人間力を高めようとされてきた)

私は監督としての一番の仕事は人づくりだと思っています。それができれば、結果はおのずとついてくる。駅伝選手として高い目標にチャレンジをし続けることはもちろん重要です。しかし、それだけではいけない。先ほども申し上げましたが、駅伝を通して、その子が社会の荒波を乗り越える強い精神力を身につけ、社会貢献できる子に育ってくれることが最終的な教育の目的です。

(本記事は『致知』2011年11月号 特集「人生は心一つの置きどころ」より一部を抜粋したものです。ご購読・詳細はこちら

両角速(もろずみ・はやし)

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昭和41年長野県生まれ。東海大三高から東海大学に進み、箱根駅伝には4年連続出場。日産自動車、ダイエーを経て平成7年に佐久長聖高校駅伝部監督に就任。10年に全国高校駅伝大会に初出場し13年連続出場・12回入賞。6種目で日本高校記録を樹立。20年には初の全国制覇。2011年4月東海大学陸上競技部駅伝監督に就任。2019年1月、第95回東京箱根間往復大学駅伝で大会新記録を樹立し、初の総合優勝を果たす

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