一流の男の背景には偉大な母親あり



土光敏夫。

言わずと知れた戦後日本を
代表する経済人
です。

その多大なる功績に関する著作は
多く世に出ていますが、
母・登美の存在は
ほとんど知られていません。

土光登美。


最新号の『致知』では、
登美さんの一生を凝縮してお伝えしています。

ほんとうにすごい方ですよ


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土光敏夫の母・登美の一生

出町 譲(作家・ジャーナリスト)

 




『致知』2016年3月号 P54

特集「願いに生きる」

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ある映像が残されている。


昭和61年11月5日、

行政改革の旗振り役だった土光敏夫に、

民間人として初めて生前に

授与されることとなった、

勲一等旭日桐花大綬章の授章式の様子だ。



皇居宮殿の正殿に現れた

当時90歳の土光は、

式部官に車椅子を押されていた。

ところが勲章を渡そうとする

昭和天皇を前に、土光は車椅子から

何度か立ち上がろうとする。



おそらく昭和天皇に対して、

自分が車椅子に

座ったままでいることを

失礼だと思っていたのだろう。


前月に頭部の手術を受けるなど、

土光の体は既に立つことすら

ままならない状態だっただけに、

私はその姿に心打たれる思いで見ていた。



この叙勲に関して、

土光は次のようなコメントを残している。


「私は『個人は質素に、社会は豊かに』

 という母の教えを忠実に守り、

 これこそが行革の

 基本理念であると信じて、

 微力を捧げて参りました。


 幸い国民の皆様の

 理解と協力を得られ、

 私の役目をつつがなく

 了えることができました。


 今回の受章を国民の皆様と共に

 心から喜びたいと思います。

 ……(以下省略)」



大企業の社長として

次々と手腕を発揮し、

後に行革を通じて国家の再建に

死力を尽くした土光にとって、



「個人は質素に、社会は豊かに」


という母の教えは、

いわば最大のポリシーだったのだろう。


人生最後の晴れ舞台で

母の教えを語るということは、

それほどまで母の存在が

土光敏夫という一人の人間にとって

大きなものであったと

窺い知ることができる。



では、土光敏夫に

大きな影響を与えた母・土光登美とは

果たしてどんな人物だったのだろうか。


まずはその生い立ちから

辿っていくことにしよう。



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