福澤諭吉の知られざる一面

文明開化論者、欧化主義者として知られる
福澤諭吉ですが、
実は旧士族社会の士風を重んじる
ナショナリズムの精神を持つ人だったといいます。

渡辺利夫さんのお話の一部を紹介します。


渡辺 利夫(拓殖大学学事顧問)
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※『致知』2017年11月号
※特集「一剣を持して起つ」P32

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福澤諭吉と聞けば、多くの方が
激動の幕末・明治期に、
「西洋文明を取り入れ
新生日本の建設に精出すべし」と説いた、
文明開化論者、欧化主義者としてのイメージを
思い浮かべることでしょう。
 
少し詳しい方なら、福澤は

「天は人の上に人を造らず、
 人の下に人を造らず」


と語った天賦人権説の人であり、

「政府は国民の名代にて、
 国民の思う所に従い事を為すものなり」


と主張し、社会契約説の立場をとった
啓蒙思想家だと理解しているかと思われます。

福澤諭吉の名を世に知らしめた
明治初期の一大ベストセラーである『学問のすゝめ』には、
確かにそのような内容が書かれています。
 


それからもう一つ、
世に広く知られる福澤像を決定づけているのが、
福澤が晩年に著した『福翁自伝』に記された
「門閥制度は親の敵で御座る」
という強烈なメッセージです。

同書には、無類の学問好きであった父・百助が、
「中津藩では、漢籍において彼に敵う人物はいない」
といわれるレベルにまで達しながら、
下級士族であったために、
学問を通じての身分上昇は叶わず、
失意の生涯を送ったことなどが書かれています。
 
そして福澤は、
「門閥制度は親の敵で御座る」
という旧社会への憤懣を抑えられず、
親の敵を討つために
西洋の学問の修練に努めるより他なしと決意。
長崎で蘭学を学び、
次いで大坂に出て緒方洪庵のもとで才能を見出され、
さらに東京に出て英学に転じて、
知識人としての道を歩み始めるのです。
 
しかし、『学問のすゝめ』や『福翁自伝』の
ストーリーから浮かび上がってくるイメージは、
福澤の実像を正確に捉えているのでしょうか。

福澤は生涯にわたって膨大な文献を書き遺しています。

私は学生時代から現在に至るまで、
折に触れて福澤の著作に親しんできたのですが、
文明開化論者、欧化主義者、啓蒙思想家
といった福澤の世間のイメージは、
彼の思想のほんの一面にすぎないことを、
読むたびに悟らされてきました。……
 

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