2017年09月07日
一代で運送会社を一部上場企業にまで
育て上げた、丸和運輸機関。
創業者である和佐見勝社長の
創業の原点には、厳しくも
優しさに満ちた母親の存在がありました。
───────「今日の注目の人」───
和佐見 勝(丸和運輸機関社長)
※『致知』2017年10月号【創刊記念号】
※特集「自反尽己」P46
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──和佐見社長は一代で
一部上場企業をつくられたわけですが、
そこに至る歩みを教えてください。
父親には強く反対されましたが、
僕は15歳で八百屋さんに
修業に出ているんです。
なぜかというと、
僕が小学校に入学する前から、
母親が結核で入院していましてね。
当時はまだ特効薬もなく、
病院にお見舞いに行きたくても、
隔離されていてなかなか
会うことができない。
ようやく面会が許された
時のことはよく覚えていて、
久しぶりに見る母親の手が
すごく痩せて小さくなっていました。
僕はそれがとてもショックで、
病院の帰り道に決意したんですよ、
「早く世に出て母親の病気を治そう!」って。
それで中学の頃から
青果市場でバイトを始めて、
20歳までに自分の店を持とうと志し、
15歳で働き始めたんです。
(中略)
──どのようなお母様でしたか。
優しさの半面、厳しさもある母親で、
「人に迷惑をかけてはいけないよ」とか
「お世話になった人に対しては
恩義を忘れてはいけません」
ということはかなり厳しく言われました。
その後、特効薬が
出回り始めたおかげで母親は
徐々に回復していくのですが、
僕は15歳で八百屋の修業に出てからは、
朝早くから夜遅くまで
必死になって働きました。
ご主人にはとてもよくしてもらって、
仕入れの仕方や目利きのことも
細かく教えていただきました。
とにかくお客様に喜んでいただける
仕入れをすることの大切さを、
僕は一番に学びましたね。
19歳で最初の店を出すことができ、
店は鮮度を重視した戦略で繁盛し、
2店舗目までは順調にいったのですが、
24歳の時に押してはならない
判を押してしまったことで
僕はすべてを失いました。
手元に残ったのは莫大な借金と
トラック一台だけ。
結局、そのトラック一台が、
この業界に飛び込む
きっかけになったんですよ。
※会社設立以来44期連続の
増収増益を続ける丸和運輸機関。
成長を支え続ける和佐見さんの
諦めない姿勢は、本誌インタビュー
からも伝わってきます。