2021年09月05日
2016年のリオパラリンピックで銀メダルを獲得、2017年の国内大会では世界新記録を樹立したブラインドマラソン日本代表の道下美里さんが、東京パラリンピックで見事金メダルを勝ち取られました。小学生で発症した難病によって右目の視力を失い、20代半ばで左目も発症――ほとんど視力を失った逆境の中、決して諦めることなく立ち向かってきた道下さんのひたむきな歩みと、それを支えた言葉を伺いました。
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右目に次いで左目にも異変が……
〈道下〉
視覚障碍者が行うマラソン競技、女子ブラインドマラソンがパラリンピック正式種目として採用されたのは、2016年開催のリオ大会からでした。日本代表として臨んだパラリンピックは、中距離選手だった頃から夢に思い描いていた大舞台です。伴走者をはじめたくさんの人たちに支えられて獲得した銀メダルは、私にとって本当に掛け替えのないものとなりました。
また、翌年に参加したロンドンマラソンで、自己の日本記録に迫るタイムで優勝したことは、2020年の東京大会に向けて、新たなステップにもなりました。
もっとも、いまでこそ私の笑顔のもとになっているマラソンですが、今日に至るまでの道のりは決してよいことばかりではありませんでした。
初めて右目に異変が見つかったのは、小学4年生のこと。その後、原因も分からぬままに視力は徐々に落ち、中学二年生の頃には0.1に。医師の勧めに応じて行った数度の手術も空しく、右目は完全に光を失ってしまったのです。それでも左目を頼みに高校、短大を卒業した後に、働きながら調理師免許を取得したのは、将来、レストラン経営を夢見ていたからでした。
残された左目に、右目と同じ異変が見つかったのは20代も半ばに差しかかった頃でした。すぐに医師の診断のもと手術に臨んだものの、術後に目を開くと、擦りガラスをとおして見るような状態になってしまったのです。
完全に光を失ったわけではありませんが、そうなっては一人で外出することもままなりません。後に染色体劣性遺伝疾患が原因だと判明し、遅かれ早かれ発症したであろうことが分かったものの、私に手術を強く勧めた母に対して、当時は随分辛く当たったこともありました。未来に希望を描くこともできず、自分が生きている意味を一人自問自答する日が続きました。
「何か」を取り戻したかった
〈道下〉
塞いでいた私の心が開いていく転機になったのは、山口県立盲学校(現・山口県立下関南総合支援学校)への入学でした。それまで目の不自由な人が普段どのように生活しているのかも知らなかっただけに、最初は不安でした。もっともそれは杞憂にすぎず、むしろ自分と同じ境遇の仲間に出会えたことで、どれだけ勇気を得たか分かりません。
思えば、当時は見えないことへの不安も確かにありましたが、自分のことを相手に理解してもらえないことのほうが遥かに辛かったと言えるでしょう。その場その場において、自分はどんなサポートが必要なのか。それをうまく伝えることができず、無二の親友との関係がギクシャクしたこともありました。
自分の置かれた状況をきちんと理解して、いま何を必要としているのかを相手に伝えるのは決して簡単なことではありません。人から手を差し伸べられた時、「ありがとう」と相手に対して言えなかった頃は、自らの境遇をまだ完全には受け入れられていない自分がいました。
それだけに、周囲の人たちとうまく関係を築いている盲学校の仲間から学ぶ中で克服できたことも多くありましたが、自分に素直になれたことで人間関係に悩むことも徐々になくなったように思います。
一方、チャレンジ精神旺盛な仲間たちに刺激され、スキューバダイビングなど新しいことにも挑戦しました。あれもできない、これもできないと失うことばかりだった青春時代を過ごしてきただけに、盲学校に入ってからの3年間は、何かを取り戻そうと必死だった自分がいたのです。
陸上競技を始めたのは、最初はほんの運動不足解消のつもりでした。ところがどうでしょう。目標を持って練習に臨み、頑張ってその目標をクリアした時の達成感は、それまでにないほどの喜びを私に与えてくれたのです。
自分のやりたいことに出逢えたことで、周囲に対して自分を理解してほしいという思いも、より強くなりました。視覚障碍者が走るためには、周囲の協力なくして成し得ません。そのために自分はどうすればよいのか。そういった思いの積み重ねが、競技の結果にも徐々に繋がっていったのかもしれません。
「耐えるもの必ず志を得る」
〈道下〉
盲学校を卒業後に勤めた鍼灸院に西森芳夫院長という全盲の方がいらっしゃいました。かつて戦場で爆雷にあって視力を失い、戦後の動乱期におけるどんな逆境にも耐え抜く中で、鍼灸師という道を一心に歩んできた先生です。
御年90にしてなお意気軒昂でいらした西森先生に教わったのが、「耐えるもの必ず志を得る」という言葉でした。どんな逆境に遭っても、投げ出さずに耐え忍べば、必ずその先に光が見えてくる――。
障碍者にとっての日常は、耐えることの連続です。その中にあって何があろうと、時を待てるようになったのはこの言葉のおかげでした。私には人生をともに走ってくれる仲間がいます。一人ではできなくても、一緒になって成し遂げられることの喜びが、私の一番の原動力です。
(本記事は月刊『致知』2018年5月号 連載「致知随想」より一部抜粋・編集したものです)
◇道下美里(みちした・みさと)=ブラインドランナー/三井住友海上所属